眠らないまま目覚めることも出来ない
「ホータロー。僕をこだわり派の人間だと思うかい」
「そうだな。趣味人ではあると思う」
「そこが決定的な誤解なんだ」
「趣味人とかこだわり派の人間ってのは、何かに打ち込むものさ。そしてその分野では、誰にも負けたくないと思うんだ。毎日が発見と研鑽の日々だよ」
(中略)
「つまらなかったね。はっきり言って。なにしろ、それだけ勝ちたがって、勝ってもつまらないんだから始末におえない。そのころはなんでかわからなかったからいろいろ考えたけど、馬鹿だね、面白い勝ち方をしなきゃ面白いもんか。
で、ある日、僕はそれに飽きた。こだわることをやめた。いや、違うな。こだわらないことだけにこだわるようになったんだ。きっかけは、もう忘れたよ。
それからはね、ホータロー。本当に楽しい毎日だよ」
(米澤穂信 『遠回りする雛』 手作りチョコレート事件 より)
ずっと昔から好きなフレーズで、今もこれが頭から離れない。
この言葉を引用して、今の自分の座右の銘は、
「こだわらないことにこだわる」
になった次第である。
結局、何かで第一人者になろうとすると、上ばっかり見て、キリがなくって、なんだかいつかどうしようもなくなってしまって、あきらめてしまう。絶望してしまう。
自分の好きなように生きて、毎日の生産性を高めて、シンプルに自分の選択肢でその時その時で最適なものを得られればそれでいいなって、そう思って生きればいいんだ。
でも、ただ、本当にそれでいいのか?って疑念はいつも心の何処かには潜んでいる。
里志の一つの壁は摩耶花だった。こだわらないことだけにこだわって生きると決めた人生で、彼は彼女にこだわっていいのだろうか?と自問自答を続けた。
何かの行動は、結果論として語られるものなのかもしれない。気づいたら身体は動いてしまっていて、あとで、ああだったんだな。って理由付けをするんだ。
基本的にそうなのかもしれないけど、やはり自分が思考したという実感が無いと、少し寂しいし、自分が自分を許せなくなってしまう。
好きなことに没頭すること、ひたすら深くのめり込むこと。それのどれほど素晴らしいことたるや。それでも、自分はそれにこだわっても良いのだろうか?
2つある。1つは、自分は浅く広く、ではないが、一つのことにしか見識が無いと、移り変わる状況に適宜対応ができなくなってしまうのではないか、融通が利かないのは些か不都合ではないか?という不安。
もう1つは、自分がそれに情熱を注げるのか?自分は注ぐ価値のある人間なのか?という感覚だろう。
そうやって、足踏みをしてしまう時点で、自分は自分で可能性を狭めてしまっているのかもしれない、いや、事実そうだ。
自分は飽き性と自称するほど飽き性ではないとは思っているが、少なくとも凝り性だとは思っていない。
ただ、もしかしたら、こだわらない本当に根底にある理由は、
こだわってしまうことで、ほかの選択肢を潰してしまう可能性があるかもしれないとないものを恐れていること、こだわった末に、自分が欲しいと思ったものを手に入れられず、絶望するのが嫌だと恐れていること、ソレが無くなってしまったときに、何を拠り所に生きればいいのかわからないこと。
そんなことのせいなのかもしれない、あまりにもリスク回避型の思考なのかもしれない。
やりたいように生きる、それはやりたいことを無制限にやっているわけではなく、マイナスになりそうなら即手を引いているだけなのではないだろうか?
ある程度満足してしまったら、それで手を止めてしまう、次に行ってしまうと、中途半端に出来上がったガラクタ達は、僕の周りにずんずんと積みあがって、一杯になってしまう。もう、どこになにがあったか、覚えてないや。