自由であるべき権利なんて、きっと無いほうがいい。
多くの場合、人間は自らの生きる意味を問い続けないまま、生きる。
それは何故なのか?
人は、手放しに「生きる権利」ばかりを保障されているからだと思う。
生きるための手段ばかり与えられて、肝心の生きる目的に彷徨ってしまうことは、
特別珍しいことなんかではなく、多くのケースで散見される。
人間が「生きること」に自由を有しているのであれば、
同時に「死ぬこと」に対しても自由を付すべきだと思う。
生と死、どちらが君を幸せたりうるのか?
生きる、死ぬに拘ったことじゃない。
世の中には、様々な選択肢が乱立している。
その中で我々はいつも、よりよい答えを求めて、
その時点での答えを出し、行動している。
たとえ、あとで振り返った時、良くないものだったとしても、
無意味なものだと絶望してしまったとしても、
それが自分を、相手を苦しませてしまうことだったとしても。
我々の行動指針は、将来起こり得る結果に従属すべきなのか、
それとも、
その行動をする目的に力点を置くべきなのか。
わからない。
自分の行動も、後程自分で振り返ってもわからなくなってしまうのだから、
他人の行動なら、なおさらだ。
なんでお前は、それをするのか?
その目的はなんだ?お前は何を求めているんだ?
お前は何になりたいんだ?どう在りたいんだ?
自分でそれが言えなければ、路頭に彷徨ってしまうし、
相手のそれがわからなければ、もう、君を信じることはできない。
勝手に勘違いして、勝手に舞い上がって、
意味もなく頑張って、その無力さを知って、
絶望して、やるせなくて、
そして、気づけば考えることをやめて生きる。
その悲しさ、それを自覚してしまう悲しさと向き合うのは、
やはり惨いし、やるせない。
だからこそ、自らのコンパスを常に指し示して生きなきゃいけない。
そうやって生きていかないと、何も考えられなくなってしまいそうだから。
市場価値という概念が好きだ
色んな人と話をして、自分の今後について考える時、
「市場価値」とか「素養」とか、そういった観点で話をするのが好きで、きっとそれに向かってキャリアデザインをするのが最重要課題なのだと痛感する。
例えば、年収1,000万円が目標の鈴木くんという高校生がいたとする。
当時彼は、「年収1,000万円を得られるということは、それだけ払う価値がある人間になる」という解釈のもとそこに宣言したという。
世の中で年収1,000万を得ている人間は上位10%もいないだろうが、そうした彼らは原則、やはりその対価を払うだけの「市場価値」があるからそうなっているのである。
なぜならば、同じ能率、同じ成果ならば、安く雇える方が魅力的な人材だし、人間性がしっかりしている方が扱いやすいからだ。
さて、わたしは、あなたは、その程度の価値がある人間なのだろうか?
もしそうでない場合、足りないものは何か?
逆に、今ある魅力を伸ばすことで、今500万円分の価値しかないものを倍以上に伸ばすことはできないか?
こういったエトセトラに通ずるものが「素養」なのだと解釈している。
素養は広い方がいいに決まっているが、それを「知識」に留めることそれ自体は意味を為さないのだ。
それを、使用し、市場に投入して収益を得られてこそ、市場価値が生まれるのである。
これから、AIが支配する世界において、こういった「知識」とか「データベース」とか「タダの根性」は価値を失うだろう。
なぜならば、AIのほうが「安価で」「文句も言わず」「24時間365日休憩不要」で働くスーパー人材だからだ。
だから、とどのつまり言いたいことは2つ。
口だけの人間はこの観点においては意味がない。行動そしてその結果がすべてだ。机上の空論でマウントを取り合うようなド卑猥な真似は辞めたい。
努力はすればいいってものじゃない。正しいベクトルで適切な量と質のもと努力すれば結果論でそれは成功している。
わかっていないといけない2点だし、わかっていても人間は性悪だから日々胸に刻んで生きていこう。
新年なので報告から。
今、自分の全ステータスを足した値があったとして、
上限値が10000だとすれば、
今は、3000くらいしかないと思ってます。
(後述)
近々、このブログは使わなくなると思います。
というのも、完全に自分で書き物をするのを辞めてしまう、というわけではなく、
オウンドメディア運営、運用を真剣に精査しようと考えるためです。
やることなすこと、基本的に変わらないとは思うのですが、
SNS含め、今後の運用施策は多大な変更とそれらを伴います。
具体的には、はてなブログからWordPressに完全に移転をする予定で、
これは、2月中には実施施策として行います。
オウンドメディアを運用するにあたって、ただでさえ多重人格な自分ですが、
さらなる多重人格をネット上で磨いてまいります。
現実世界を生きる、生身の人間、戸籍上の固有名詞で存在する「私」
これは、おそらく、Twitter、Facebook、Instagramでの活動、およびもしかしたらWordPressでブログをするかもしれません。ということです。
次に、ネット上の世界で生きる、サイバー上の人間、ネットネーム上で存在する「私」
これは、WordPressでオウンドメディアを設立、およびそれのプロモーション活動、趣味人、エセ粋人として生きる私は、別次元に存在するものとして介します。
自分が磨きたい能力は、大きく分けて3つです。
一つは、「アーティスト」要素としての自分。自分の感情を、様々な媒体で形として、それを多岐に渡る解釈要素として他者に再定義、疑問を投げかける自分。これは、ここでやっていることがベースになると思います。自分の感情を記すための、その世界観を確立するための、それにたくさんの解釈を人に持たせることの、もっと傲慢なことを言えば、それで誰かが生きる指針になったり、救われたりする要素になるために何かを叫び続ける自分。
二つ目は、「デザイナー」要素としての自分。アートとデザインの違い、これは各々気になったらググってください。自分の言葉で、表現で、多くの人に汎用が効き、市場価値、経済価値を生み出すような言葉の創出、文章の制作、画像デザイン。
このなかにあるのは、ライター要素であり、コピーライター要素であり、Webデザイナー要素であり、グラフィックデザイナー要素であります。3要素の中で、もっとも伸ばしていきたい、形として残したい要素であると思っています。
そして三つ目は、「マーケター」要素としての自分。売れるものがなぜ売れるのか?その検証と、ノウハウ構築、良いものの魅力を正しく伝える要素を持ち合わせている、その力がある人間。自分の意思決定が市場価値を大幅に増大させるだけの自分。SEOであったり、新卒採用後の働き方であったり、「自分で食い繋ぐ要素」としての力です。
この3軸を伸ばしていくことで、自分は生きていて楽しいと思うし、生きる理由になると思います。
いずれにせよ、自分は今後誰よりもお金を稼ぎたいと思うし、だれよりも自分が身に着けたいと思うスキルを身に着けていくし、だれよりも貪欲に必死こいでパソコンとにらめっこして生きていくと思います。
もしかしたら、これで自分のそれ以外の娯楽とか、休むこととか、人と会うこととか、おざなりになってしまうような予想はつくのですが、
自分は今まで、多くのことに手を伸ばして、時には4つくらい部活入って生徒会長やったり、時には文武両道したり、時には部長と副部長を二刀流したり、いろいろマルチタスクをこなしてきた自負があります。
自分のキャパシティーだったり、自分の能力の限界がどこまでいけるのか、どこで自分が体が嫌!と言って拒絶反応を示し、飛んでしまうのか。。
ある意味、めっちゃ興味があります。
体と精神が壊れない程度に、ただ、自分がマジで強くなれるように、死ぬ気で頑張ってみたいなと思っています。
今まで、曲がりなりにもなんとなく努力してきたつもりで生きてきましたが、
やる量、やったことによる今後の人生の転換、ひいては生涯年収に至るまでを決めかねない、死ぬほど大事っこなフェーズにいる自覚はあります。
2020年は、きっとあとで振り返った時、自分で
「キモいくらいに勉強した年」
と笑って言えるくらい、やってやろうと思うんです。
多分、それができたら、これから老衰して死ぬまで面白いことしてずっと生きていけるだろうし、自分が今までなんとなく考えてた劣等感とか、他者にあって自分にないものとか、できないもどかしさとか、見つめずして逃げてきた自分のコアたるところとか、だいたい全部がどうでもいいことに思えてきて、ほんとにおもしろい世界が見えてくるような気がするんです。
今、自分の全ステータスを足した値があったとして、
上限値が10000だとすれば、
今は、3000くらいしかないと思ってます。
それを、この1年で7000くらいまで釣り上げていったるわって本気で思ってます。
高校3年でなんとなく目標にした、
「俺は年収1千万分の価値がある男になる」
という目標は、どうやらこのパラメーターが9000くらいになったときに達成するんじゃないかな?と推察していて、
多分、8000くらいまでは死ぬ気で頑張るだけでどうにかなって、
8000以降は、「実績」だとか、「経済価値」だとかが勝負になってくると思います。
力があっても、それを使いこなせないと意味がないし、資本主義経済では、それで収益があげられないと意味をなさない。
8000以降、自分が現状立てている目標、実績を作ることによって、それは何かしらの形で実現するのではないかと考えている。
さて、じゃあどうするか?
やるしかなくって、やることは確かに決まってきたから、あとは、本気になるだけかと思う。
なんとなくの気持ちでやっていた高校受験、将来の見通しなくやっていた大学受験と明らかに違うのは、目的が定まっているうえでの、目標が明確なうえでのこの策定である。
これで自分は過労死で死ぬかもしれないけど、それで終わる人生も素敵やん?
一番恥ずかしいのは、何かと理由をつけて、頑張るのをやめること。
こういう人間にだけは、今回だけは、絶対にならない。そういうことにしようか。
(追記)
今、あくまで主観的な意見で、人生のキャリアプランを設計している段階。
折に触れて、言う価値がある人、相談したい人には随時語ってみて、その反応から、自分の考え方が正しいのか?というすり合わせを行っている。
自分を客観視することに長けていても、これが正しいのか、贔屓目に見なくても全うなものなのか?わからない。
だから、ここまで読んでくれている人なんてよっぽどのカルトファンじゃないと読まないだろうし(めっちゃほめてるし愛してる)、そういったうえで、率直に感じたことをぜひ聞きたいと思ってます。
だから、できたら、思ったこと、LINEくださいって思うし、
なんなら、飲みに行きませんかって思います。
このブログで何か語るのはもしかしたらこれでおしまいかもしれないので。。
なんやかんや2年続いて、面白いことに2000PV を超えたニッチブログです。
どうせ内輪ばっかだろうし、一方的なだけでもなんか申し訳ないなって思うので、
ぜひ、双方向でお話できる機会あれば、自分無勢で力になれること、あるならたくさんお話ききたいし、自分も話すだけはなして、お互いの人生語りたいなって思うんです。どうですか?それに価値あるなって思ったらなんか連絡ください。
飲み会で奢るという概念は俺には存在しないですし、もちろん割り勘ですが飲み会しましょう。
改めてキャリアプランを
2019年が終わる。
ここで、立ち止まって過去を見つめなおすのもいいかもしれないけれど、
今は、過去を見るより、未来をみないといけない時期なのは確かなので、
過去の、今年の話はちょっとだけ。それよりも大切なのは未来のこと。
今年は、改めて考えると自分に絶望した一年である。
自分はある程度できるという過信のもと生きていて、それは小さな組織のなかでしか通用しないものだった。
高校1年のとき、それを知って絶望して病んでいろいろ考えて今の生き方を確立させた。
大学3年の今、ダメージを受けまくる前に防御コマンドを打っていて、病む前に行動ができたのである。
今年はある意味、「大学生である自分」を捨てた。なぜならそれは、
大学生である自分に甘んじることで、自分の成長が止まることに気づいたからだ。
きっと来年は、もっと組織や職業や役割に縛られない、より「個」としての生き様を考え生きることになるだろう。
こんな感じで。
さて、これからは未来の話。
自分はまず、40歳にはカフェを開業しマスターになる夢をもとに生きる。
そのために必要なもので考えるのは、未婚を前提に『2,000万円』。
金銭的、経済的観点から、40歳までにこの金額の貯蓄が完成するような
20年の勤労を過ごす。
単純計算。1年で100万円ずつの貯金だ。初年度はさておき、この金額が貯められるような立ち回りをしなくてはならない。
すると、年収350万円ほどからスタートして、キャリアアップ、昇給を経て1,000万円までが一つの目標。
さて、皮算用するだけならだれでもできることで、
「どうやって」そうするか?の命題である。
自分にはそれを得るために必要なスキルは以下だと思う。
・ライティングスキル。コピーライトも文章も。
・HTMLとGAS、余裕があればPythonの実装知識。
・フォント、Webデザインを中心としてデザイニングスキル。
・インターネット広告運用の知識とノウハウ。InfeedとSEO、アドワーズが軸。
・人事/総務的な視点でのマネジメントスキル。
ざっと並べてこれ。これを2020年で初級から中級程度の形を作る。
なぜならこれが自分の「やりたい」ことだと信じているから。
もちろん、これを大学で学べるのであれば学ぶが、どうもこの1年学んできて、
もう自分には不要な概念が半分以上だった。ここで学ぶことはあっても、妄信すべきではない。自分のゴールは学者ではないのである。
さて、そうしたとき、就職活動との兼ね合いもある。
自分は幸いにも、良い迷いができる立場にいると客観視している。
そういった意味合いで、じゃあ、自分の近未来にフォーカスを充てるのではなくって、中長期的なスパンで自分は何者でいたいのか?を突き詰めていきたい。
自分はどんな船に乗り込むのが良いのか。どんな人生をカッコいいと誇れるのか。
自分のことをできる人間だとは思わないが、何も考えないモブキャラだとは思いたくない。自分が何かを考えられる立場、真剣になれる誠意がある人間であるという自負のもと、やる気がなくなるまで人生を生きようと思う。
時間は無限にあるようで有限だ。
自分は来年の1年、どれだけ、「個」として成長したいと熱望するか、それを実行できるかで今後の人生の行方が変わってくる気がしている。
誰かと同じような、普通の道を同様に歩めば自分はそこで誰かと同じになる。
例えば、100人に1人しかできないようなことをできるようになっても、日本には同じような人間は100万人もいるけれど、
また違った、100人に1人しかできないことをできるようになると、同じ人間は1万人ほどになる。
また違った~~、同じ人間は100人だ。
もうひとサイクル回せば、たった一人の自分になるわけである。
じゃあ自分は、4~5個ほど、凄い武器をもった人間になろうと思うわけである。
一つしかできない人間は、100万人ものライバルがいて代替できるけど、
できることが複数あって、その希少性が高く、互いを関連させてすごい面白いことができる人間が最強だ。
そのために、自分が「したいこと」は何か?それは「すごい面白い」ことなのか?
そういう、自分の技術の組み合わせにも着目しながら、どんどん凄い人間になるって、
ついさっき決めた。誰にも邪魔はさせない。一番の敵は自分の煩悩だな。
費用対効果、という概念
大学生活が、終わろうとしている。
4年ある "猶予" のうち、既に2年と10か月程を消費した。
単位について言えば、今年でほとんど取り終わるし、望んでも望まずともまずまずの成績を取ることができている。
自分が、大学に対する考え方が前半と後半でガラッと変わってしまって、それでもこれは俺の考えだって信じて突き進んだことがある。その話をまとめておこうと思う。
入学時からしばらくは、要約すると「食べ放題で元を取る」生活をしていた。
受験期から入学時にかけて、親が自分にどれだけの金額を費やしてここに居させられているのかを痛感した。入学金、授業料、生活費…。
はっきり言って、ある意味でそれは重荷で、自分は、
「ここまで金をかけてこの自由たる環境を用意してくれたのだから、
絶対に死ぬ気で勉強に励もう。真面目に生きよう。」
そう考えるようになった。
受験期で勉強をすることには慣れていたし、割とタイトな日程でも自分なりにいい成績を取れるように努力したし、真面目に出席、授業参加を続けた。得た成績は、ある意味自分への勲章でもあるかのようだった。
ほかのみんなは。この言葉には語弊が生まれてしまう。
「より一般的な大学生」は、寝坊に自主休校、親の金で遊んで酒飲んで、大学生活を謳歌するのが宿命かのようだ。
その考えが正直自分には理解できなかったし、そんな生活をして俺は両親に合わす顔がないと真剣に思っていた。世の中には大学に行きたくても学費が無くて奨学金を借りたり、よもやその余裕もなく中卒、高卒で働いている人もいるのに、我々大学生は学問を修めるという上流階級の贅沢を親の資産を食い潰して嗜んでいる。
これがどれほど凄く恐ろしいことかを、なぜ一般ぴーぽーは理解できないのか。そういう憤りすら感じさせる瞬間もあった。
勉強ははっきり言って楽しい。学ぶことで得られるものは大きい。
ただ、その考えに少しだけアレンジを加えた転機が訪れたのは、2年の後半あたりからだ。
根幹の部分は変わっていない、勿論今も親の金を食い潰し生きている自負はある。
しかし、そのなかで、自分は所詮「大学の勉強しかできない汎用性のないオツム」でしかなかったのだ。
世の中には、一つだけ自分が特化しているものがあればそれで良い、という人はいるし、一理あると思う。
でも、それは果たして本当なのか?その特化した一つが無くなってしまったとき、自分のポケットには何が残っているのだろうか?
大学の勉強ができても、もちろんそれは最高レベルでできるわけじゃない。それでも、周りからしたら「中途半端にできる」だけでしかない。大学を卒業すればそれで終いだ。大学の学問を完璧に習得してできる名誉は、きっとそのまま学術分野に進まないと使いようが無い。
じゃあ、自分がもっと他に手に入れたい武器とは、何なのだろう。
ある時、自分は親の金を代償に「時間」を手に入れたのだと知った。
4年間、好きに生きていいという猶予。何にも属さなくて良いという猶予。最低の業務は、「食べ放題の元は取ってください」ということ。授業料を納めた分だけ、その学士で知識を蓄えよ、と、そういう根端だ。
さて、振り返ってみるとどうだろう。俺が学んだことは机上の理想論。教科書に沿って進められたケース解析、答えと事例のある世界。しかもそれを評価するのは社会でも市場でも経済でもなく権威ある賞でもなく、教員の一存、学生のなかでの優越感それのみなのである。
所詮、小さい籠のなかで必死に飛ぶ練習をしていたに過ぎないことに気づいた。
それは、自分の人生設計に適切な時間なのだろうか?
違うなら、もっと何かを変えなくてはいけない。
そう、そうして始めたのが仕事だし、書き物をするというこういった表出活動(利己的だが)だし、もっと自分の興味のある分野の本を読むことだし、自分の人生をデザインするということである。
与えられた何かじゃなくて、自分から手を伸ばして得られる何かが快感だし、
何よりも、皆横並びで同じことをしなければならないことが、あまりにも自分にとっては性に合わなくて、嫌になってしまっていることに気づいた。
皆同じように大学に入って、同じように普通に過ごして、普通に就活して、普通に卒業する。それって、何が楽しいの?
それってぜんぶ、じぶんのやりたいことだったのだろうか?
気づいたら自分のポケットは空っぽで、手を伸ばして手に入れた環境では、いつも自分が籠の中でちょっと良い鳥だったことに過ぎない現状に絶望した。
だからこそ、2019年は必死こいで自分のシステム設計に尽力したし、誰よりも凄い稼げる社会人になる準備としての活動を進めたのだ。
大学の授業は、ちゃんとは出席した。ただ、勿論90分集中しなくなった。
ラジオのように聞き流す。面白いと思ったら手を止めて、じっくりと聞く。何かあれば意見を仰ぐ。それが一番心地いい。
提出物も、正直評価よりも、
「自分の書きたいことを書く」ということに集中するようになった。
あまりにもフォーマットからずれるわけだから、評価はしにくいものだと思う。
なぜ、そんなことをするのか?
自分は、短期的に見た「大学でのSだのAだのBだの評価」よりも、
長期的に見た「自分が成長すると思うこと」に投資をするようになっただけだと思う。
良い成績を取るメリットと言えば、周りからチヤホヤされることと、研究室の配属が優先されるくらいで、あとはあんまり価値はない。
当大学は給付型特待生奨学金が貰えるわけじゃないし、親からの仕送りが倍増するわけでもない。院に進むわけでもないから、大学教員の好感度なんて大したものじゃない。
かえってそれで、自分が
「誰か、何かにとって都合の良い型にはまった何者か」
になるのだとしたら、それは願い下げだって返上した。
ただ、まったく大学の授業が無駄だとは思わないからこそ、ひたすら「内職」して、
「ながら講義」をするわけである。そう言えば高校の受験期もそんな人間だった。人はいつも回帰し循環する。
データ分析の授業で、教科書通りに進めた「これ」が、いったい自分の人生なんの価値があるのかと真剣に考えたことがあった。だからこそ、自分は働いて実際に予算を預かってデータを分析し運用することで、責任と成長を得た。
いくら良いアイディア出しをしても、それが一部の人間にしか評価をされないなら
経済価値は低い。それなら、実際の会社でアイディアを出し、市場に投げたほうがよりためになる。翻って見れば自分は、内輪のノリ的なやつが堪らなくだいっきらいな人間だ。こういうことは上記のような価値観を裏付けるのだろう。
自分は組織に対しても人間に対しても機関に対してもそうだが、
評価を割と分散させる。ここが駄目だから全部ダメ、とは拒絶しないのだ。
良い所悪い所あるから、悪い所は極力避けられるように立ち回って、可能なら煽って悪口言ってスッキリする。
良い所だけをかいつまんで、その技術を盗んで自分の蓄えにする。そういうずるい生き方が性に合うのである。
さて、話を戻すと、自分の猶予はあと1年と3か月だ。
この時間で、自分は何を手に入れたいと思うのか?何を捨てようと決断するのか?
そういうことのほうが、はっきり言って何よりも興味がある。とてつもなく合理的に生きるのである。
大カミングアウトおじさん
突然でめっちゃ自らをこう評価するのがびっくりなんだけど。
自分は、Aセクだなと、性自認をたった今したのでその話をします。
アセクシャルは時に「無性愛者」と呼ばれるそうです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%80%A7%E6%84%9B
無性愛(むせいあい、英: asexuality)とは、他者に対する性的な惹かれ(sexual attraction; 性的魅力を感じること)の欠如、または性的な行為(sexual activity)への関心や欲求が少ないか、あるいは存在しないことである[1][2][3]。無性愛の性質を持っている人のことをアセクシュアル[4]、Aセクシュアル[5]、無性愛者[6](英: asexual エイセクシュアル /eɪsɛkʃʊəl/[7]、アセクシュアル /æsɛkʃʊəl/[8])という[注釈 1]。
(Wikipediaより引用)
要するにLGBTQ+の+にある部分なんだけど、
いざ自分のこの感性がしっかり名前が付いているのか、と思うと少しだけ安堵がある気持ち。
アセクシャルのとらえ方って割と沢山あって、自分は割としっかり言うと、
・定義上の「他者」とは、「自分が接触可能なコミュニティにいる他者」である。
・「恋愛感情」の欠如が最大のテーマである。
・感情自体は何とか存在するものの、性愛、恋愛に結びつかない。愛情はある。
・「性的魅力」の点。性欲はあるが、上記の「定義」上では無性欲。
・具体的には「かわいい」「えっち」の感情があるが、具体的に恋愛感情・性的魅力への導線が用意されていないイメージ。
・性衝動はあり、自慰行為も過不足なく行うが、実際の身体接触は望まない。
・上記は一種の日課的な感覚で、
際の空想対象(この言葉の使い方にしっくりこないが、定義に即していえば)は女性
・他者からの身体接触にやや嫌悪感。長ければ長いほど指数関数的に大きくなる。
・一瞬の身体接触程度なら違和感程度で済む。
・過去との思考変動があり、先天的ではない。
こんなところかな、自分の自慰録を世界に発信するのはいささかどうかと思うが。
これが性自認か、という感覚があって、少し驚きつつ不思議な感覚になっている。
だがしかし、同時に、結構心は穏やかである。今まで結構それについて自分で向き合っていたということもあるし、それに名前がついていた、と思うと、今後の他の人への説明も相当楽だろう。先人の知恵って素晴らしいな。
しかし、自分もまだまだ不勉強の身で、まだ認識違いなこともあるかもしれないし、今後も文献調査等で見識を深めていくのと同時に、積極的に誰かの意見を聞いてみようと思う。この自分の認識が正しいのか?
自分は人権としての価値は割と失っているし、差別だとかそういうたぐいのものには触れないでおく。差別も何も、組織とかそういうのに拘らず個人として独立していきたいから。差別は差別で由々しき問題だが、それに関して自分がどうということは言う立場ではないという認識である。
こんな固くまとめてはみたが、さてこれが正しいの?と言われると、ちょっとわからなくなってきた。まだまだ勉強不足!
追記:正しくは、「アセクシャルアロマンティック」が適切かと思います。