カプチーノ現象

内向的自己回帰型排斥主義OL

なんでこんな思考回路になったのか?

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「個性」なんてものは厳密に言えば存在はしない。

 

結局はどこかで、過去の何かの模倣でしか無い。

 

自分は特別な存在だって心のなかで感じても、結果として、ある決まった何かの型にはまって生きている。

 

 

自分の価値観が大きく変わったと思う瞬間は二度あって、

一度目は14歳、二度目は16歳くらい。

 

中2で突如、腹部に激痛が走ったのは駅伝大会の次の日のことで、3回目からは嘔吐物は出なくて胃液が出るってことを学んだ体験があって、

 

まあ人生二度目の入院と手術だった訳なんだけど、この時明確に

「ヒトって死ぬんだな」

ってことを肌で体感したのと同時に、

「死ぬってラクじゃね?痛みって生きてる時だけじゃん」

 

って思ったわけ。全身麻酔のまますっと意識が遠のいて、二度と目が覚めなくなる。たったそれだけが死ぬということなんだ。

 

もう自分の存在も意識も、後ほどフィードバックも何も無く、突然死ぬというイベントで強制終了だ。それって本当に嫌なことだろうか?

 

正直、生きてる方がよっぽど心労だ。楽しいこと嬉しいことがあったとしても、人はいろんなストレスに、痛みに、耐えながらなんとなく生きてる。

 

そこまでして、生き続けなければいけない理由って何なんだろう?

 

あまりにも社会は死をネガティブに捉えすぎている。そう考えるようになった。

 

身体中に管が通されて、何とか生き繋いでる病床のあの人。

カゴの中に入れられて、痛みとやるせなさと戦う、戦った結果が、「寿命」という報酬なのだ。

 

自分の人生、生き続ける価値があるのだろうか?

 

だからこそ、ではないけれど、自分は自死へのネガティブなイメージは無い。

それはひとえに、これから生き続けるリスクと、死ぬためにかかるちょっとだけめちゃくちゃ痛い一瞬、あとは何もなしっていう死を天秤にかけた時、後者の方がいいと思えば、それはそれでより幸せだから。

 

それでも、21年間連続で「生きる」選択をしているのは、まだ生きてる方が面白いから。やなことも勿論あるけどね。

 

実際死ぬってラクだと思うよ。考えるってことは、ハイリスクハイリターンな消費活動なんだから。

 

 

 

16歳と言えば華の高校生。

正直言って、青春は綺麗な部分より、見えない醜い、触れたく無いような灰色の青春のほうがよっぽどえっちだし人としての深さのそれに関わってると思う。

 

自分は何者でも無いことを痛感した。

 

今、自分のことはスーパーマンだと思ってるけど、昔はもっと驕り高ぶっていた。

正直ほんとに自分は物語の主人公だと思ってたし、自分は本当に人間界で上位数%レベルの人間だと思っていた。

 

勿論それは大きな間違いで、自分は割と大したことない一般人側だと知ってしまうことになる。

きっかけは学業のこととか、人間関係、恋愛関係とか、諸所あるんだけど、どこでも共通することは、

 

井の中の蛙

 

これに尽きた。自分は小さいコミュニティで凄いだけのちょっと変梃子な奴なだけなのだ。

そう、自分は何者でもなかった。大衆の構成要素に過ぎなかった。自分は特別でも無いし、誰かにとっても特別でもないのだ。

 

それこそ、「生きてるけど、死んでる」って状況だろう。

 

出来ない側、劣等生として生きる耐性が付いていなかった、田舎のボンボンだった自分は、それに耐えることができなくて、たまに本当に高校に行くのが億劫になっていた。

 

風邪と称して高校は年に何度か休んでいた。

 

結構休むもんだから、欠席する連絡を高校の事務に連絡するという行為が印象に残っている。

蛇足になるけど、なんで高校いちいち休む時連絡入れなきゃいけなかったんだ?あの作業罪悪感と劣等感で30分くらい落ち込むから嫌だったんだよね。

 

現在の自分のスタンスを敢えて先に言うと、今はむしろ自分が劣等生だと感じる環境に自ら飛び込むことを意識している。

それはひとえに、自分がまだまだだと痛感しないといけないから。居心地の良いぬるま湯に浸かるとそこで自分が終わってしまうから。

 

その苦痛が、いつしか自分が成長するためのエッセンスなり得ることに気付いてむしろ楽しみになったし、より「反骨心」的な何かが醸成されたように思う。

 

自分よりすごい人を見つけたら、勿論凄いって思うし、それだけ嫉妬もする。

あの人にあって、自分にないもの。

 

その差に時に絶望するけれど、「やったるぞ」って頑張るようになった。

 

「才能ないから」って妥協するのはダサい。自分が自分に恥ずべき概念。

 

だから、自分なりに努力してみようと思った。

 

勿論自分は芯が弱いから、凹むことも今も沢山あるけど、やれることは出来る限り誠心誠意尽くす。無理だと思えば無理しない。その塩梅を大切にして生きるしかないんだ。

 

勉強も段々中の上くらいにはできるようになった。どうせ何においても1番にはなれないなら、自分の好きなことは自分自身が納得いくまで伸ばしてみよう。そう考えてみることにした。

 

他者と自分を比較することでしか自分を評価できなかったかつての自分は、対戦相手次第で一喜一憂してしまうとても儚い人間だった。

 

自分の理想の自分を設定して、それに向けて個としてゴールに向かって努力したほうがよっぽど楽しい。

 

今まで、沢山の他者と関わるなかで、やっぱり重要なのは、「個としての自律」でしかないなって思った。

 

やっぱり、自分が自分でいられない原因は、自分としての核が無いこと。キョロ充してしまう、個人としての掴み所、目に留まるところがないから、「大衆」になり、何者でも無くなってしまう。

 

自分が何者か?それを一番最初に定義してあげるのは間違い無く自分だ。だからこそ、自分の内面を自分でサイクル回して磨くしかない。

 

個として独立したうえで、他者と関わるから、組織は掛け算でものすごい成果が出せるのだ。一人で出来る人じゃない人たちの集まりに何の意味があろうか。

 

グループワークは大っ嫌いだけど、別にグループワークを否定するわけじゃない。大切なことは、個としての完成度が高い人間が集まってこそのグループである。私はその完成度が高いだろうか?

 

個としての完成度、それを言い換えれば、「自分が何者か」という定義ができることにあると思う。

 

ありきたりじゃつまらないのはそういう部分。

 

自分が誰かの記憶に強烈に残ってしまうようなヤバい人。それが何者か?という問いへの答えになるのだろう。

 

 

まあ、ここまで語っても、世の中の人間はみんな個性が無い。何かの模倣だし、プロトタイプに当てはまるし、何個もの人格をコピーペーストして繋ぎ合わせただけの "つぎはぎの概念" でしかないよ。

 

自分の考えは自分しかない特別なものだ!そう感じても、具体的なエピソードがそうなだけで、抽象概念はもうそれを言葉にして誰かが哲学として形に残している。

 

 

だから、読書は面白いよなって話でした。

 

怒らない方がよっぽど無粋

怒らない、ということは本質的に対象に対して期待も思い入れもないのかもしれない。

 

よく、体育会系で

「お前に期待してるから怒ってるんだからな」

っていうストレス発散の大義名分を片棒に自己主張を掲げる人間に嫌悪感を抱いていた。

 

そんなん自分のエゴやん、怒りたい正当な理由を作りたいだけ、自分が「教えてる風」をしたいだけ。

 

そう思っていたし、今としてその感情に変化はない。

 

ただ、人が謝ってきた時に、

「いやいや、そんな謝ることでもないですよ」

って思うのは、もしかしたら相手にさして興味も期待も無いからなんじゃないかな?って。

 

やさしいだけの人間は本質的には悪人だし、ずっとニコニコしている人間の腹の底は理解できないくらい真っ黒になってる可能性もある。

 

たしかに、ちょっと人にムカつく時ってそれなりに労力を使うから、できるならそんなことにエネルギーを使わない方がいい。そうやって、人間関係をセルフデトックスする発想は割と重要なのはわかる。

 

でも逆に、自分がムカつくってことは、

「その人は本来これくらいのレベルでいて欲しいのに、そうでないからその差に不協和を感じているのではないか」

って仮説を提唱するのだ。

 

自分がそう思考するだけの労力を費やす相手は、それ相応に自分が肩入れしている他ならないのだ。

 

そう考えると、自分はあまりにも他者への感情の浮き沈みがない。

 

よく言えば、他者評価を適切に行えている、悪く言えば、人に必要以上に期待していないのだろうか。

 

自分について定義しなおせば、確実に単純な人嫌いというわけではない。多分根底の部分ではコミュニケーションは好きだ。

 

恐らく、前提の部分から間違っていて、自分は自己として存在が確立してからの他者なのだと思う。本質的に他者を信頼しないのは、感情的な側面ではなくシステム面での根拠が原因だ。

 

まずは自己として個々の確立されたなにかが先だからこそ、何となく群れるっていうのは性に合わないのだ。

忙しいは便利な逃げ道に過ぎません

正直、人生は退屈で、暇な時間の方がずっと多いと思う。

 

だからこそ、無駄に多く人は予定を何かに囚われるように突っ込むのだ。

所詮、人生は死ぬまでの暇つぶしだ。

 

さて、最近自分は、いつも都合の良い時ばかり「忙しい人間」をアピールするなと思っていて、それは大義名分だからこそたちが悪くて、自分を面倒ごとから守ってくれる素敵な言い訳の魔法だ。

 

別に誰に対して言うわけでもないから、俺に「忙しいからパス」と言われたことがある人間がこれを見ていたのなら非常に気にしなくても良いと思うんだけど、「忙しいからパス」っていうときでほぼ確実に、人生全力かければ時間なんていつでも空けられるもんでしょ。

 

例えば、明日の朝7時から予定があるとする。前日はゆっくり寝たい。そんな時、1件のLINEが来る。

 

「今晩ごはん行きません?」

 

そういわれて、少しは顔をしかめることがあったとしても、実際に「行く」か「行かない」かを決める最終要因は、

「その人間にそれほど愛を注ぐべき対象なのか?」ということだろう。

 

その人がめちゃくそ好きな人だったら、無理してでも行きますっていうし、別にいいかな、今じゃないわって人は「忙しいからまた今度」と言う。

もし、本当に忙しくて無理だったとしても、好きな人に対してだったら、

 

「ごめん本当に忙しくって、明日じゃダメですか・・?」

となるわけである。具体的な予定された未来への提案はそこに確かに存在する。

 

けれども

「忙しくって、ごめんね」

こういうだけで、「忙しい」という大義名分だけで自分の身を守れる、素敵な言葉なのだ。

 

どれだけ暇で暇で仕方なくても、誘われてうれしくない人に何か誘われたら、

「ごめん、最近忙しくってまとまった時間がとれなくて。。。」

 

と言うだけで素敵に丸く収まるのである。なんて素敵なのだろうか。

 

こんなこと言って、今後の人生で自分が得することなんか一ミリもなくって、むしろ今後軽はずみに「忙しい」なんて言い訳使えないのは確かなんだけど、そのリスク以上に、自分が「忙しい」って言うことへのレベル感について改めないといけないと思っていた。

 

自分が「忙しい」と思っていたとしても、それは自分の不出来からくる効率の悪さなのかもしれない。管理能力不足なのかもしれない。

それを「忙しい」なんて言葉で済ませるのは誠意なのだろうか?

だとしたら、その効率を改善するための施策をうっていかないといけないと思うし、自分の人生時間が限られているからこそ、効率的に正確で成功確率の高いものを日々採択していくべきだ。

 

自分が感じている「忙しい」という何かはあくまで主観的で、それをどう判断するかは、他者に、世間に、社会に委ねられている。

 

そんなことを考えると、「忙しい」という概念そのものの存在を疑い始めてしまう。

 

健康で文化的な最低限度の生活であれば、暇な時間なんて存在しない訳がない。人は人が最低限必要な睡眠時間は多くの人間が確保できているし、余暇も時間もある。

それなのに、「最近忙しくって」って何なんだろうか?

 

自分の発想では、「忙しい」には際限がない分、「今以上に忙しい瞬間ってもっとあるよな」って思ったその瞬間に、この忙しかった何かは途端に「暇」になる。相対的概念だが。

 

現状、課題に就活に、様々な観点でやることが多くて忙しいと錯覚している今でも、YouTubeを観る時間はあるし、こうして思ったことを好きに書く時間もあるのである。

 

 

 

 

忙しさとは、何なのだろうか

ひとつの道具ですべてに通ずる力を得ること

大事だと思っています。

 

せっかく自分が使えるようになったツールで、汎用性を広げられないのはとっても残念なこと。

 

これの最大の要因って、

「一つの事柄に対する動機が、一つしかないって決めつけてしまうこと」

にあると思う。

 

例えば我々は

「大学の単位を取るため」だけに、わざわざExcelを学ばなければいけないのか?

きっと答えはノーで、

「じゃあ、これでもっと自分の人生効率化できないかな?」

って考えるのが普通なのかなって思う。

 

人生、何かを成し遂げるには時間が短すぎるわけで、

 

一つ学んだら、それで2つまたはそれ以上の生産物を出さなければならないし、そのほうがずっと楽しくラクして生きられる。

 

Excelを講義で習って、

「こんな教科書のシーン再現を自分のPCでやって喜んで、単位が取れるだけの浅い人間でいいのか?」

という疑問から、実務で活かすためのインターンを始めたかと思えば、

Excelはなんと進捗管理シートなんかにも使えて、むしろデータプラットフォームを構築するのに非常にナイスガイなもので、

なんなら、ネット上で共有、URLリンクを含めたフレキシブルな対応ならGoogleスプレッドの方が有益なことを知った。

 

すると、自分のデータ構築をすべてそこに一元化、体系化した。

 

何をするにも便利だし、自分のなすことやることがうまく可視化できて、見落としが少なくなるから非常に人生が効率的になった。

 

ある作業をするのに、2時間かかっていたものが1時間で済むようになった。

その余剰した時間で、こうして思ったことを書けたり、もっと別の素養を深めることができる。

 

もしかしたら、自分が「仕事をしている」と思っていることは、できる人間からしてみれば「それ無駄な作業だから」って思われていて、もっと効率化できて、データを可視化できて、意思決定がスムーズに進むのかもしれない。

 

これが、教育格差だとか、オツムの出来の差だとかで明らかに時間という有限な資源に差が出てしまうことは、非常に勿体ないことだと感じた。

 

まあ、そんな自分も完璧に効率的な生き方が出来ているとは思っていなくって、もしかしたらもっと便利な生き方があるのかもしれない。それを模索する意思活動こそ、今ある程度まとまった「無駄にできる時間」がある大学での嗜み、ということで片付けようかと思う。

 

そう考えると、自分が身を置く環境って本当に大事で、自分が今まで歩んできた道が少しでも間違っていたら、今の自分の知識体系は崩れていたのかと思うと、ぞっとする。

 

よく、「何を勉強すればいいかわからない」「勉強のしかたがわからない」なんて悩みが中高生であるけど、

 

やっぱり、何かしら与えられたタスクをこなすうえで、「体系化された自分の何か」が確立されないうちに、いろんなことに手を出すのは危険なのかもしれないな、と思う。

 

その反面、そういったことって誰か先生みたいな人が教えてくれるわけでもない。社会の現状を鑑みて、自分が遠回しに教わった道具に工夫を凝らして、自分がやりやすいものを作っていかないといけない。その難しさと、その楽しさと。

 

こういったことを楽しいと思ったり、無理なく頑張れる自分は、本当に誇らしいし、これからも全力で自分の時間を効率化、合理化して生きて、沢山稼いでさっさと人生をリタイアし隠居しようとひたすら願うばかり。

 

早く休むには、誰よりも速く休憩場に到着することが必要、チェックポイントを踏み続けることが重要。

 

だから、何か良いものを見つけたら、すぐに見て盗むということを大切にしたいものだな。

感じていた違和感の正体

就職活動への、ある種食わず嫌い的な何か。

あんまりにも嫌すぎて、スーツを夏に買ったのにほとんど使わなかった。

 

そんな自分でも、さすがに11月からは真剣にやろうと思って、自己分析なんてあまりにも出来すぎていて、業界研究もそこそこに忙しなくしたためる毎日。

 

今のところ、感じていることは2点ある。

 

まず一つは、自分の実務スキル応用がどう活かされているのか?この活動に。

自分がいろんなご縁があって頂いた機会から、自分の知識を、実際にどう実務に応用するか?ということをここ半年で相当なまでに鍛え抜かれて、自分なりに形にしてきた。それが、Google Driveでの情報一括管理、共有のエトセトラ、そして、社会的なマナー。文章体裁、ここまで見様見真似で生きてきた部分があったけど、自分のなかで完成間近のところで、この就職活動という個人的な実務への飽くなき改善とシステム設計とクリエイティブ開発と、すべてに実になっているように感じている。これらが、当たり前のように出来なかった半年前の自分が、このまま何も考えずに生きてここまで来ていたのか?と思うとゾッとする。自己管理能力は自分では高いほうだとは自負していたけれど、それでもまだチャンチャンだった。きっとこれから、もっと自分の至らなさに気づくことになるだろうし、その発見と凄惨の日々が楽しみではある。

自分がこれから生きるうえでの、新卒就職というステップ。自分の20代の8割が決定するビッグイベント。まわりはみんな、「それから」の将来について言及する人、対策する人が多いけれど、実際問題、時間軸は過去、現在、未来へと連続的に進んでいくうえで、「それまで」の自分について、何も考えないのは、自分に対して些か不誠実ではないか?

「自己分析」なんてちゃんちゃんな言葉で表現する就活市場に感じていた違和感。

 

俺たちは、分析するほど価値のある「自己」なのか?

 

…みっともない鏡の前に映った自分、どれだけ凝視してもわからない自分という存在。

自分という存在を、どこにでもあるような、ありきたりな言葉を引用して、自分という何かを表現するのである。いたく浅はかだ。「自己」を分析していくという過程のなかで、我々は何か用意されたキャラの一つに当てはめられようとしているのだ。少しだけ恐ろしさすらある。

 

まず一つ目の違和感は、そこだった。

 

自分は、今までの人生で何度も何度も立ち止まって自分を見つめなおしてきた。

それは、自分が大好きだという要因だけではなく、それだけ多くの挫折、絶望、辛酸、涙があったからだと思う。自分はいっつも、思いあがって自分が凄いんだなって錯覚する。つけあがる。するとすぐ、自分よりずっと凄い人間がパッと目の前に現れて、自分の自尊心をケタケタに踏みにじっていく。そんな凄い人のお陰で、自分がもっと凄くなりたいって日々妥協なき生き方をするんだ。でもそれも、自分よりすごい人って中々現れなくて、それは突然やってくる。

 

大学に入って、いや、東京に来て、自分に近しい人で本当に凄いな、勝てんな、尊敬しかできないくらい自分はちっぽけだ、って感じた経験は、以前より減った気がする。それはちょっとだけ寂しい。

 

パッと思いついただけで、自分が持っていないものを持っていて、強い羨望を持つ、尊敬に足る人物というのは、2人しかいない。

 

最近会った、自分が持っていないスキル全部持っていた完璧超人の人

自分の好きなことを好きって好きなだけ言えて、それで沢山の人を幸せにできる、それを厭わず努力できる才能にあふれた人

 

彼は、彼女は、きっと自分のことを凄いんだって思っていなくて、まだまだなりたい自分がいるからこそ、向上心もっていろんなことできているんだろうな、そう思うと、小さいまとまりで群れるだけで、自分個人として、固有名詞として能動的に生きることができないってなんて詰まらない人生なんだろうなって皮肉めいてみた。

 

少し悲しいことなのは、自分が入ったコミュニティでは、尊敬できる人物はあんまり居なくって、それは突然やってくるから不憫だ。

自分はやや高い確率で、組織内でできるという扱いを受けて、優遇されるように感じる。それが正直悔しい。自分がその温度にしかいられないという現状に。自分がダサくて弱くて使えないってところでガリガリ頑張っていない現状に。人の上に立ってまとめることは左程苦手でも嫌いでもないけれど、ここで自分は何か成し遂げられるのだろうか?成長できるのだろうか?と疑問符が浮かぶ。

 

自分は組織名で語られたくない。自分という「固有名詞」で語られるべきなのだ。その組織で偉いポジションにいるからなんだというのだ。その小さいコミュニティで比較的ちょっと凄いだけで、偏差値でいえば60前後に過ぎないのだろう?それなら、もっと高いレベルで周りに刺激、プレッシャーを受けながら、それでもへこたれないで必死こいで食い下がる自分のほうが好きだし、もっとも輝いているし、生きている実感が湧く。本質的には、「承認」は自分のガソリンではないのであろう。

 

そうやって考えた中で、二つ目の点。

自分は、就活への認識を見誤っていた、いや、社会が見誤っている。

ということだ。

就活生が「募集要項」によって募集されるこのスタイル。あくまで買い手は、数億ともなる人的資源の買物をする「企業」であり、我々は、「プロダクト」に過ぎないのである。

昨今、製品には様々な機能が搭載される。我々商品にそれはあるのか?

繰り返し述べるようだが、自分という「商品」を売り込むうえで、欠かせないのは、

 

・正しいセグメントで勝負すること

・自分という商品を差別化すること

 

なのではないだろうか?

セグメントの面では、自分が「やりたいこと」でないと行く意味がないし、それが、「できること」でないとしんどい。だとしたら、多くの話を聞いたりするのは当然のことで、上辺だけ紹介されるような説明会だけでなく、1対1の密なコミュニケーションもそれ同等かそれ以上に重要なのであろう。

自分という商品を差別化するうえで、必要なのはパッケージングだ。

どれだけ中身が美味しいスナック菓子でも、パッケージが魅力的でないなら手を伸ばす価値はない。では、手を伸ばすパッケージ、目に留まるパッケージとはなんだろうか?

自分のクリエイティブ開発力が試される重要なセリングポイントになりそうだ。

あまりにも昨今は、「マイナスからスタートラインに立つ」ということばかり重視されていて、「スタートラインから自分らしさをアレンジさせる」というポイントが甘いように感じた。

 

中学、だいたいどこも校則は厳しい。マイルドヤンキーなら破ってなんぼ、でも自分は生徒会長であるがゆえ、守り律する立場だったのだ。では、どうするのか?

 

それは、「ルールの範囲内で、自分の表現をありふれさせる」ことなのではないだろうか?制限があるからこそ、人はそのなかで藻掻く瞬間を、姿を美しいと感じるのではないだろうか?最終回がないアニメはだらけてしまうし、年齢制限のないアダルトビデオなんてロマンスもクソもない。束縛されてなかで、どこまで尖れるか?それが重要なのではないだろうか。そのなかでのあくまでの、「超えてはいけないライン」としてのルールなのだ。そうやって、物事を守ろう守ろうとだけに注力してしまうのは、あまりにも没個性的で悲しくなってしまうな。

 

ちょっとだけ感じていた違和感というのは、皆がおんなじ顔、おんなじ姿で、没個性的に「歩兵」が生産されていくさまを見ていたからなのかもしれない。

 

人は、相手から好かれることに必死になると、自分のウィークポイントを隠そうと必死になって、自分の汚い所を隠す方を頑張る。

 

それなら、自分の綺麗なところをたくさん見せることに注力したほうがずっと良い。汚いことを隠すことを考えるのなら。

 

自分には磨いたら光るところ、綺麗なところがたくさんあって、どんな自分の面白い一面を売り込もうかな?という発想はどうなのだろうか?自分は人並み程度にしか自分に自信はないとは思っているが、それでも、過去の自分に、未来の自分に恥ずかしくないように毎日生きているつもりだ。

 

自分は最近の大学生に詳しくないけど、そんなにみんなは自分に自信が無いですか?

そんなに自分がみっともない人間だと思いますか?

ほんとうに自分の個性を埋没させることを是とするんですか?

みんな、承認されることが大好きな癖に、そういうところは遠慮するんだな、よくわかんないや。最近の若いもんは。。。21歳の爺には難しいな。

 

自分は凡人だと気付いたのは何時だろう

ここは退屈迎えに来て』という作品で、すべての登場人物の中心になるのは「椎名くん」という存在だ。

 

椎名くんは、高校でのいわゆるリア充だ。彼の周りには人が集まるし、カリスマ性もあるから、椎名くんがすることはすべてカッコよく見えるし、みんな椎名くんに憧れて、好きになって、振り回される。

 

田舎なら誰しもが経験する「井の中の蛙」。それは、その井戸から出なければいつまでも幸せなのかもしれないけど、一度外の世界を知ってしまえば、その恐ろしい魅力と、自分の魅力はありふれていたものだという絶望と、すべてが、何もかもが没個性と成り下がってゆくあの虚しさと。。

 

その絶望を知ってしまうと、今いる世界、いや、かつていた世界は、なんと無象で、ちっぽけで、あり得ないくらい灰色だったんだろうって考える。あの時はあんなに楽しかったのに、なぜ?

 

あの世界が楽しくって、素敵で、すべてで、この柵からでなければきっとずっとシアワセだったのに。人は外の世界を知ってしまえば、自分がこの人しか愛せないって盲目になったあとに、それよりもっと魅力的な人に出会った時、かつてのモノの「退屈さ」に虚しくなってしまうのだろう。

 

それって悲しいことで、でも、当人にとっては悲しさよりも怒りの方が強い気がした。

自分が凄かったことより、自分が凄くないんだって気付いたときの方が、感情、価値観の騒めきの絶対値はきっと高い。

 

人は1つだけ誇れることがあればそれでいいって話だけど、その誇れることそのものが偶像だとしたら?

 

自分は贔屓目に見ても見なくても、凄い人だとかつては思っていた。自分のやりたいことは叶えられたし、努力すれば相応の答えは掴めた。周りの人には褒められて、ちやほやされて、モテて、尊敬されて、、

それを素直に受け取って、愉しんでいた自分。

 

ふと、気付いたとき、自分はなんでもないこと、何者でもないこと、何にもなれないことに気付いてしまって。それからは推察するに灰色な毎日だろう。途端、周りからの褒め言葉はお世辞にしか聞こえないし、相手からの好意は色仕掛けの裏返しにしか見えなくなってくる。

これらの本質は、本質的に自分に自信がないことにあるのだろう。ここでいう本質的、とは、一般的なフィールドでは自信があるのに、ということだ。

 

一度これを感じてしまうと、もう何も信じる意味すら感じられないし、それで誰かに付き纏われても困ってしまうのだ。

 

古典部シリーズ、『いまさら翼といわれても』で、それへの処方箋として「長い休日」という表現を使われていたのがいたく印象的だ。

 

その休日がこじ開けられるまで、じっと殻に閉じこもっていればいい。死ぬまででも良い。それを無理やりこじ開けてきたおせっかいこそ、その休日を終わらせてくれる人なのだ。退屈さから連れ出してくれる人なのだ。

 

椎名くんの話でまたすごく好きなのが、

 

椎名くんは「台風の目」だからこそ、周りはありふれた雨風でしかないということだ。

 

「私」「あたし」「僕」にとっては、青春を代表する1ページだったとしても、人生を変えた一瞬だったとしても、ゆっくり紡いでいた時間だとしても、

相手には、そんなことは全然なくって、なんなら覚えてすらいない一瞬。時間をつなぎとめていた何か泡のようなモノ。それって辛いのかな、それとも、悲しいとすら感じないのかな。

 

人は、絶対口に出さないだけで、どこかで他人のうち1人でも「都合の良い関係」ってのを作ってる。自分が困らない、何かを埋めるだけの、一方的に便利な関係。

それって不誠実だっていう偽善者は無視して議論するけど、

その都合の良い関係って、あくまで本当に一方的で、相手がそれを大切な時間と定義していたとしても、私にとってはそれは単なる暇潰しでしかなくって。

 

 

キミにとっての私という存在は、

私にとってのアイツという存在だったのかな。

 

それを、直接伝えられるわけでなく、あとから自分でわかってしまうのが嫌だなあ。

 

人は誰もが誰かの特別になりたくて、何者かに成りたくて生きてて、騒いでて、認められたくて生きている。みんな何者かに成りたいんだ。

 

けれど、その一方で、あの人、この人を何者にしてやろうという気持ちがない。結局一番可愛いのは自分で、よそを承認しない。そんな一方的な矢印ばかりが、ねじれの位置的に交差しながら、何本もの矢印がすれ違って、薄くなって、ぽきっと折れて、あてもなく伸ばすだけの人生。それって、つまらなくないかな。

 

いろいろ考えて、やっぱりいつも辿り着く答えは、

 

「部屋で布団に入って好きなことしてる、誰にも邪魔されないココが、俺の人生だな」ってこと。これが真理になってちゃってるから、社会的にはだめだなあ。

 

過去は書き換えられないが

ある時、何も持ってないことに気づいた。

幸せが詰まっていると思ってたポケットは、実は空っぽだった。

そこに何を詰める努力もしてこなかったんだから当然だ。

そしてある日突然、自分がたくさんの時間を失っていると感じた。

 

 

Rewrite』の冒頭は、瑚太朗くんがこんな印象的な語り出しで幕を開ける。

 

最初に語り出す点、声優が森田成一で、非常にFFⅩと酷似している部分がなんとなくお気に入りではあるが、今の心境を心から風刺しているといって過言でないこのフレーズは、悲しいくらいに心を冷たく突き刺している。

 

下を見ても、上を見てもキリがない世の中ではあるが、確実に自分は無能な人間であることに間違いない。

正直他人と比較するのは好きではないし、常に自分の理想の自分で在り続けたい、それを求め続けるべきだと信じて疑っていないが、

ふと、自分が何も持っていないことに気づいた。

 

自惚れていたわけじゃないけど、自分は全然ダメなことに気づいてしまった。

これを言うと。そんなことない、貴方は凄いってフォローを入れてくる人が時折存在するけど、今は、その言葉を言う人間がすべて悪人に見えるし、自分の成長を止めていると今は声を大にして言える。

 

正直、自分は自分の評価を見誤っていた。何かの指標を元に、いろんな人から褒められることはあっても、そのレベルの範疇で褒められているに過ぎないのである。

別にそれを馬鹿にしているわけではない。それはそれで確かに有難いことなのだが、

自分が目指すべきゴールはそこだったのか?

無意識のうちに、居心地の良い所で安穏としていたのではないだろうか?

その気の抜け具合で、自分の日々は惰性、怠惰なものになっていってしまう。

 

自分は、努力をしていたのか?正しく言い直せば、

自分の目標に見合った正しい努力を真摯に取り行っていたのか?

 

やらなければいけないことを確実にこなすことよりも、やりたいと思うことにどれだけ時間を懸けられるかが重要。

 

自分のなかで大切にしてきたものは、果たして自分によって正しく守られているのだろうか?

 

自分は、このポジションに満足してしまったのか?

 

それは浅はかで怠惰だ。自分はこんなところにいるべきじゃない、そういいたいわけじゃなくって、もっと貪欲に生きねばならぬのだ。

 

自分が凄いなって尊敬する人がいても、追いつけないな、はい、ちゃんちゃん、それで終わっている自分はどこかにいないだろうか?

 

自分のことを褒めてくれる人、凄いって言ってくれる人だけを周りに囲って、居やすさばかり追求していないだろうか?

 

それよりも、自分を高めてくれるような、自分より有能な人間が多くいる場所に、それが居心地が悪くても身を置くべきなのではないだろうか?

 

自分よりすごい人なんて、世の中には沢山いて、自分が欲しい能力を、自分よりもずっと高いクオリティで持ち合わせている人は沢山いる。

 

それなのに、自分は少しいい位置にいるからといって、酷い体たらくで胡坐をかいていた。そんな自分を激しく責める。

 

今、自分は自分のことを許せないし、激怒している。

今後の改善施策は、自分が一番わかっているはずだから、死ぬ気でやろうと思う。

 

現状、自分を一番激しく非難できるのは、紛れもなく自分自身なのだ。

 

人間不信は昔からだが、もう、自分を褒め媚び諂うような人間の言葉は、右耳から左耳に流れ作業のごとく受け流そう。甘えんな、俺!!