忙しいは便利な逃げ道に過ぎません
正直、人生は退屈で、暇な時間の方がずっと多いと思う。
だからこそ、無駄に多く人は予定を何かに囚われるように突っ込むのだ。
所詮、人生は死ぬまでの暇つぶしだ。
さて、最近自分は、いつも都合の良い時ばかり「忙しい人間」をアピールするなと思っていて、それは大義名分だからこそたちが悪くて、自分を面倒ごとから守ってくれる素敵な言い訳の魔法だ。
別に誰に対して言うわけでもないから、俺に「忙しいからパス」と言われたことがある人間がこれを見ていたのなら非常に気にしなくても良いと思うんだけど、「忙しいからパス」っていうときでほぼ確実に、人生全力かければ時間なんていつでも空けられるもんでしょ。
例えば、明日の朝7時から予定があるとする。前日はゆっくり寝たい。そんな時、1件のLINEが来る。
「今晩ごはん行きません?」
そういわれて、少しは顔をしかめることがあったとしても、実際に「行く」か「行かない」かを決める最終要因は、
「その人間にそれほど愛を注ぐべき対象なのか?」ということだろう。
その人がめちゃくそ好きな人だったら、無理してでも行きますっていうし、別にいいかな、今じゃないわって人は「忙しいからまた今度」と言う。
もし、本当に忙しくて無理だったとしても、好きな人に対してだったら、
「ごめん本当に忙しくって、明日じゃダメですか・・?」
となるわけである。具体的な予定された未来への提案はそこに確かに存在する。
けれども
「忙しくって、ごめんね」
こういうだけで、「忙しい」という大義名分だけで自分の身を守れる、素敵な言葉なのだ。
どれだけ暇で暇で仕方なくても、誘われてうれしくない人に何か誘われたら、
「ごめん、最近忙しくってまとまった時間がとれなくて。。。」
と言うだけで素敵に丸く収まるのである。なんて素敵なのだろうか。
こんなこと言って、今後の人生で自分が得することなんか一ミリもなくって、むしろ今後軽はずみに「忙しい」なんて言い訳使えないのは確かなんだけど、そのリスク以上に、自分が「忙しい」って言うことへのレベル感について改めないといけないと思っていた。
自分が「忙しい」と思っていたとしても、それは自分の不出来からくる効率の悪さなのかもしれない。管理能力不足なのかもしれない。
それを「忙しい」なんて言葉で済ませるのは誠意なのだろうか?
だとしたら、その効率を改善するための施策をうっていかないといけないと思うし、自分の人生時間が限られているからこそ、効率的に正確で成功確率の高いものを日々採択していくべきだ。
自分が感じている「忙しい」という何かはあくまで主観的で、それをどう判断するかは、他者に、世間に、社会に委ねられている。
そんなことを考えると、「忙しい」という概念そのものの存在を疑い始めてしまう。
健康で文化的な最低限度の生活であれば、暇な時間なんて存在しない訳がない。人は人が最低限必要な睡眠時間は多くの人間が確保できているし、余暇も時間もある。
それなのに、「最近忙しくって」って何なんだろうか?
自分の発想では、「忙しい」には際限がない分、「今以上に忙しい瞬間ってもっとあるよな」って思ったその瞬間に、この忙しかった何かは途端に「暇」になる。相対的概念だが。
現状、課題に就活に、様々な観点でやることが多くて忙しいと錯覚している今でも、YouTubeを観る時間はあるし、こうして思ったことを好きに書く時間もあるのである。
忙しさとは、何なのだろうか