自由であるべき権利なんて、きっと無いほうがいい。
多くの場合、人間は自らの生きる意味を問い続けないまま、生きる。
それは何故なのか?
人は、手放しに「生きる権利」ばかりを保障されているからだと思う。
生きるための手段ばかり与えられて、肝心の生きる目的に彷徨ってしまうことは、
特別珍しいことなんかではなく、多くのケースで散見される。
人間が「生きること」に自由を有しているのであれば、
同時に「死ぬこと」に対しても自由を付すべきだと思う。
生と死、どちらが君を幸せたりうるのか?
生きる、死ぬに拘ったことじゃない。
世の中には、様々な選択肢が乱立している。
その中で我々はいつも、よりよい答えを求めて、
その時点での答えを出し、行動している。
たとえ、あとで振り返った時、良くないものだったとしても、
無意味なものだと絶望してしまったとしても、
それが自分を、相手を苦しませてしまうことだったとしても。
我々の行動指針は、将来起こり得る結果に従属すべきなのか、
それとも、
その行動をする目的に力点を置くべきなのか。
わからない。
自分の行動も、後程自分で振り返ってもわからなくなってしまうのだから、
他人の行動なら、なおさらだ。
なんでお前は、それをするのか?
その目的はなんだ?お前は何を求めているんだ?
お前は何になりたいんだ?どう在りたいんだ?
自分でそれが言えなければ、路頭に彷徨ってしまうし、
相手のそれがわからなければ、もう、君を信じることはできない。
勝手に勘違いして、勝手に舞い上がって、
意味もなく頑張って、その無力さを知って、
絶望して、やるせなくて、
そして、気づけば考えることをやめて生きる。
その悲しさ、それを自覚してしまう悲しさと向き合うのは、
やはり惨いし、やるせない。
だからこそ、自らのコンパスを常に指し示して生きなきゃいけない。
そうやって生きていかないと、何も考えられなくなってしまいそうだから。