違和感の擦り合わせについて
自分のなかでよく思っている、ちょっとパっと見は変なんだけど、是非解って欲しい話をしたいな、と思います。
題して
「幸せな時間、嬉しい時間が苦手」
ということです。
まさにその通りで、これ以上語ることはありません。
…そんなことを言うと、あまりにも矛盾にあふれているので。
自分は一応体裁上では、ずっと同じような単調な毎日がずっとずっと死ぬまで続いてくれればいいなって実は思っています。
でも、いろんなご縁や道義があって、いろんなことには参加したいと思っているので、そんなこと言うくせには、人付き合いが異常に悪いというわけではありません。
でも、なんだか実は何も考えずに毎日生きていけたら、比較的ラクなのにな、って話です。
今からとっても当たり前のことを言いますが、
僕は楽しい時間は楽しいので好きです。
好きなことを思いっきり楽しむ瞬間はとっても快感だし、
好きな人と何時間も喋りながら夜が更けてしまうのもとってもたのしいです。
楽しい時間がずっと続けばいいのに。そういった言葉はよくありますが、
勿論、ずっと続くわけではないのは事実だと思います。
でも、自分は、それが終わってしまったあと、虚無感を感じてしまう深さが少し苦手です。
寂しいとか人肌恋しいとかそういうわけじゃないと思うんだけど、一度沸点まで行ったものが、少し冷めてしまう感覚がちょっとだけ嫌いです。
感情のアップダウンに慣れていないのかもしれないけれど、なんだかそれに気疲れしてしまうことが多い気がします。
良いことがあった日はとっても嬉しいし、幸せな気持ちになるんだけど、その日の夜とか、次の日の朝とか、ふと息をついた瞬間に、ちょっと空しくなること、ありませんか?
二日酔いで浮遊したまま、どこか社会に足をつけないまま漂ってしまう感じです。
3日もすれば、前と変わらずへらっとできてしまうから、
なおさら怖さがある現象だと思います。
普通の状態が50、楽しい時間が100だとすると、
50→100→50になるわけではなくて、
50→100→15→35→50 みたいな感覚で
ややリカバリに時間がかかる。
楽しい時間が生きがいとなって、これからもそれで白飯を食い続けられるならいいんだけど、そういう幸せって即効性はあっても持続性がないことが多くないですか?
1か月前とかから、その楽しい時間がくるって決まった予定が立っていたとしたなら。
その日まで割と指折り数えて、その日が来るまでは死ねないな~なんて笑いながら楽しみにできる、これは生きがいになるのは間違いないのですが、
それが終わってしまうと、はて、今度は何を楽しみにして生きればいいのか解らなくなってしまうからなのでしょうか?
一瞬の虚無感がほんとうに面倒なんです。
変なアップダウンがあって嫌な気持ちになるのなら、ずっと50のテンションで生きているほうが、エネルギー消費も穏やかで、とっても気持ちよく生きることができるんじゃね??そう捻くれた感情を結論としてまとめることもあります。
それも最大要因ではないものの、一因になって、自分は引きこもりインドアおじさんにジョブを定めたのかもしれません。
自分は、
「定期的に刺激的な最高の非日常」よりも、
「毎日ちょこっとだけいいことが断続的に続く日常」
のほうがよっぽど、ずっと素敵だなって思うし、憧れているし、それを目指しているんです。
それが、現実世界と自分の内在的にあるものとの、ちょっとした「違和感」なんだと思います。
社会は割と「非日常感」を嗜む傾向にあるのは確かだと思います。
それが彼、彼女の人生のすべてを表しているとは限らないのですが、人は、自分の日常よりも「非日常」を比較的好んでいることが多いように感じます。
むしろ、「毎日同じことばっかりで退屈!」と思ってしまうこともあるのだろうかな?と。
自分は、毎日の出来事のなかで起きたちょっとした変化とか、フフッてなったこととか、ちょっとムッとしたこととか、小さな変化を面白おかしく考えて、
「そんなこともあるよね」ってバカできるほうがよっぽど楽しいんだと思います。
そんな僕の人生観は、よく「今日もいい天気だよ」という曲が表してくれるのですが。
記事の最後でスニッパーした画像貼っときますね。
別にこういった物事に正解なんてないと思うんだけど、逆に言えば正解なんてないから面白いことだと思うんだよね。
まあまあ嫌なことがあっても、一日寝れば忘れちゃうから楽勝だし、だいたいのことは3日もすれば彼方に吹っ飛んでしまうから、テキトーに生きるのが一番だね。
◆追伸ってほどでもないのですが、
同時に、日常を脅かしてしまうような非日常が怖いんじゃないかな?と思うこともあります。
この楽しい時間のせいで、何か自分が普段できていたことができなくなってしまう、とか、
自分がちょうどいいと思っていた空間・距離に変化が起きてしまうこととか。
自分はそこまで大きく変わりたいと思ったことはありません。
自分の倫理観、自分の哲学に従って生きてきました。
人生における選択肢もそうだと思います。
自分にとってよりよいこととか、やりたいこととか、なりたい自分とかを割と合理主義、快楽主義的に生きてきたと思います。
何か間違っていると思えば適宜修正パッチを再コーディングしていって、常にアップデートした自分を作り上げてきたような自負があります。
ある一時点から現在までをみて、「変わっちまったよなアイツ」と言われるのは簡単ですが、自分の中では納得して進んできた選択肢の先なので、にわか俺ファンのお前は黙ってろってそう思うわけです。
ちょっと嬉しいけど、その分だけ嫌なことは、しっかりと自分を評価してくれること。
これの因果関係は解らないけれど。
褒められて、認められて曲がりなりにも嬉しいという感情はあるものの、その分モヤっとする何かがあるのも事実だと思います。ある意味で、自分は進んでモブキャラ、哲学的ゾンビになりたいと願っているのかもしれないですね。非常に皮肉だと思います。