カプチーノ現象

内向的自己回帰型排斥主義OL

語彙力

語彙力ってやっぱり大事なんだな、って思う瞬間は、自分の語彙力の無さに痛感した時に他ならない。

 

ああ、この今の感情を、どういう表現で言うのだろう?どんな気持ちかと、自分は定義づけているんだろう?

 

そんな時に、エモいだとか、えちえちだとか、良きだとか、ありきたりな表現で、いろんないろんなさまざまな感情を一括りにしてしまうのは、いたく勿体ない。

エモい中でも、哀愁なのか、歓喜なのか、感動なのか、痴楽なのか、痛快なのか、いろんな感情表現があるなかで、それらを一括りにされてしまうのは、どうも自由からかけ離れていて、独創性、個性といったものを逸脱した案件だ。

 

それに、今ある感情を、何か書物として残して、昔を回想して再び読み返す機会があったとする。その時の感情を事細かに残せない語彙力を恨む。きっと、その時その時に人の感情は微妙に繊細に異なっていて、だからこそ、人生は単純とはかけ離れて、より自分らしく生きる瞬間足り得るのだろう。それを肌で感じるためにも語彙力は欠かせない。

純文学も、時に登場人物と自分を重ね合わせ多くの人の心を掴む。それは、自分の感情を代弁してくれるからなのだろう。ああ、あの時の言葉にならない不思議な感情は、この物語ではこう表現されているのか、と。その悲しい美しさにいつの時代の人も熱狂し、涙を流して、古典になる。

だからこそ、多くの言葉を知っていたい。それがこれからの自分の指針に、定点調査となるのだから。拘らないことに拘る自分でも、自分の感情を表現し、見つめ直す作業は忘れないでいたい。