カプチーノ現象

内向的自己回帰型排斥主義OL

社会不適合

社会不適合。これは口に出せば聞こえはいいかもしれないが、一種の逃げである。

 

社会不適合なことを正当化したいわけでは決してない。

自分は自称、社会不適合者を名乗っているが、実際はそこまで感じていないのが現実なのである。確かに、自分は人間として当たり前に備わっているべきステータスを持ち合わせているわけではない。運転技術もそうだし、他者とコミュニケーションするうえでの障壁というものは計り知れないのかもしれない。

 

ただ、自分のなかでは、そんなことは些細なちっぽけなことで、なんなら一般ピーポーのほうが不適合なんじゃないかと感じるときすらある。いや、それは言い過ぎか。

 

人間には得意不得意がある。それは確かにわかっているのだが、「才能でないとどうしようもない部分」と「多少気を遣えばできるような些細な事」に多くのことは分かれるはずだ。別に自分を正当化したいわけではないのだが、運転技術はどうしようもない部分も人によってはあるわけで、他にも、勉強ができるできないとか、料理ができるできないとか、そういったことのフィールドでは、他人が干渉してどうにかなるような問題では、決してないのだ。

 

だが、他にも、少し気を遣えばできるようなことだってあるはずなのだ。例えば、事務的手続きであるとか、最低限のマナーであるとか。

小学校のころよく言われたことだ。

 

 

「もっと相手の気持ちになって考えなさい。あなたが相手の立場だったら嫌でしょう?」

 

この幼少期からの言いつけ。果たしてどうだろう?我々は確かにできているのだろうか?

最近の世の中は、見ることも触ることもできない空気を読むというスキルを強要され、他者に合わせて協調することを良しとされ、大衆から外れると異端者として忌み嫌われる世の中だ。それを無意識のうちに是とし、肯定したまま生きている我々なのに、なぜ、もし自分が相手だったら?を考えることをやめてしまったのか。

 

自分は昔から相手の顔色を窺いすぎてしまう節があった。相手からすれば些細な事だったのかもしれないが、自分はそれに思い悩み、嫌われることを恐れ、恐怖と罪悪感、自分への嫌悪感に襲われる夜が幼少期、思春期に何度もあった。そんな生き方をして、寿命はまあまず縮まっていくだろう。

 

いつしか、自分はそう考えるのが嫌になり、最早人間に対して何か評価であるとかそういったものを気にするのをやめてしまいたいと思ったことがあったようで、気づけばドライだと言われ、気づけば人嫌いと言われ、なんだかんだ今に至る。脚色甚だしいが無駄のない良い表現であるとも思っている。

 

そんな自分でも、まだ結局多少の人の顔色をうかがう行為は辞めることはなく、結局気遣いとおせっかいの人生を歩む。それで満足しているわけではないが、それを他の人はなぜ苦悩しないんだと怒っているわけでもないが、それで自分が異端とされるのは癪だ。

 

自分が有能だとはほんとうに思っていないことは前にも述べたが、それでも

「なんでこんな当たり前のことができないのだろうか?」

そう思うことはある。でも、そんな自分も

「なんであいつはこんな当たり前のことができないのだろうか?」

そう思うのだろう。

それは、人それぞれが人生でデフォルトにあると思っている装備の価値観が違うだけだし、持ち合わせている道具や、文化性が違うのは言葉のうえでは説明がつくのだが。

 

それでも、他人にはムカつかれないような立ち回りをしたほうがいいし、不快な感情を植え付けないほうがいいに決まってる。

別に好かれろと言ってるわけでもない。無頓着な感情でいい。

印象に残らなくてもいいから、真面な人生を歩むような人格形成がきっと大切で

 

当たり前のルールが守れているからこそ、そのルールの範囲内で、自分のオリジナリティを出していくのが筋なのではないか?と常に考察する。それが本来の人間の在り方だと信じている。

ただ、そのルール自体に疑問を持つこととか、自分が縛られた人間であるということとか、そういったことは触れないでおいて。