世界観のはなし
最近何かと使いがちな
世界観
て言葉。
自分は割とちっぽけで、自分が思ってるよりも周りが思ってるよりもずっとちっぽけな存在で、ありふれていて、ありきたりで、代替可能な存在であることに変わりはない。
そんなことないよ、そんな言葉は綺麗事でしかない。今自分が死ねば一時的に困ることがあるとしても、時間が経つにつれて代わりが現れて、消えゆくものは消えていって、残るものは残っていく。それがすべて。
でも、だからこそ、ちっぽけでありふれているからこそ、自分が今現在ここにいる証拠を残すべきなんだと思う。
奇を衒うことが偉いことだとか、周りと同じことをすることが賢いことだとか、そういったフィールドの話をしたいわけではない。
ただ、ぼくはぼくのなかで思った、「これがやりたい。」そう思ったものを何か形に遺して常に生きていこうと思っているだけなんだ。
自己の内在的にある何かから、本当に100%自分成分でやりたいことが生まれるはずなんてない。だって誰しも他者の評価を軸にしているから。そう言われている。だったら、他者なんて居なくなってしまえばいい。そこまで行くと過激派とそう言われてしまう。
でも、本当にやりたいことってなんだろうね。
自分がどう見られたいか、自分がどう在りたいか。
何が違うんだろうかね。分かっていても、分かったふりをしたほうが賢いし、分からなくても、知ったような顔をしていたほうが美しい。
そんなところで感じる、ただ純粋にどこかから現れた何かを目の前に手にしてそして、結局さ、それが世界なんだよな。