カプチーノ現象

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多分これが源泉

【「視線」の恐怖】  2015/11/30最終更新

        名前 自主割愛

 そもそも、何故、今は楽しい冬休み、期限迫り来る課題そっちのけでこうしてワードに字面を並べているのだろうか。そう、あれは同じ部活で、自主規制である誰かさんの一言から始まったのだ。

「論壇書く一年生いないんだよね~。」

あの時、二つ返事で、

「来週まで”誰もいなかったら”俺やるよ。」と言ってしまったのがいけなかったなァ。こういう時って絶対誰も出てこないものだ。まあ、決してやりたくないわけではない。しかし、来年は、バリバリ文型の文豪さんが執筆してほしいものだ。そんなことを願って、「前菜」ともいえる論壇を一年前の今、国語と英語が苦手な私が粛々と書き留めておこうと思う。

 では、何を語ろうか?と、思ったときにふと頭に浮かんだ言葉が、タイトルにある通り、「視線」だ。皆さんは「視線」が好きだろうか?私はあまり好まない、というよりは好めない。

何か行動をするとき、他者からの視線を意識することは無意識、条件反射的に必ず起こりことだろう。それはもう人間である以上の宿命であるといえる。そんなの邪魔で仕方がない。なぜ人間はそんな宿命を背負わなければならないのだろう?いらなくない?よし、面白くなりそうだ。これについて語ろう。

 人間というものは、他者からの視線や評価を余りにも気にし過ぎている。世間は現代に「コミュ障」や「ぼっち」、「ミーハー」などという言葉を生み出してしまった。そして私たち中高生も、SNSでの会話が止まらずに、睡眠時間が短くなるなど、日常生活にまで支障をきたしている。とは言っても、私自身もそうだ。人並みに羞恥心や協調性はあるし、いつも相手の顔色を伺って自分の行動が右往左往してしまう。そんな自分が嫌いだ。よって自分に自信がなくなる。従って、ちょっとでも周りからよく思われたいと考える。ゆえに、相手の顔色を伺う。最強の負のスパイラルの証明が完成だ。

 それがいいと言う人もいる。確かに、協調性大事!集団行動をすることで大きな結束が生まれる。熱い青春がうまれる。そういうの大好きだ。しかし、ありのままの自分を出せずに生きることに人生の価値が見い出せるだろうか。(いや、見い出せない。)

結局、人間はいつまでも自分のことはカッコよく、可愛くいたいものなのだ。そうでもないと生きていけない。要は自惚れだ。

「○○してる俺(私)マジイケてる。」

そんな、良い意味で(?)自尊心を大事にしていくことが、これからを生きる、人間の在り方なのではないかな。

社会という「視(め)」は時に冷たい。それによって自分が凍えないように、準備をしていくことは必要だ。だから、ほんの少し、いや、ひとつだけでも、自分の「ここだけは譲れない」って所を忘れないで生きていきたいものだ。他に据え置きの効かない、「たったひとりの自分」であるためにも。そうすれば、いつかきっと、自分のなりたい自分が見つかり、いつしか、視線が目の前から消えていく……のだと思う。人間界というロールプレイングでの裏ボスはきっと「視線」だろう。そこで、自分の内に秘めている決して誰にも譲れない部分、それが「最強武器」になる。多分。

 

というのは完璧に綺麗事だ。よくここまで書けたと自画自賛したい。(黙)こんな風に言うだけで、言った私ができるとは思ってない。口では簡単に言えるけど、いざ、やってみろ、となるとできない。だから、私は何処かに「捌け口」を作る。一〇〇%完璧人間なんてなれっこない。だから、どこか脆い。……むしろ、この論壇の内容自体こそ、そんな「脆さ」を象徴しているのかも。でも、その脆さを大切にしたい。その自分の弱い部分が、苦悩が、力となって、より大きくて強い時分を形成してくれる素敵な糧になると信じて。

おしまい。

 

 

 

☆☆☆☆

ちょうど、拙著を出した過去を完璧に忘れていたのを思い起こされて、ほんとに内容をどんなこと書いてたのかわからんかったから、すぐにワードファイルを開いて全部読んでみた。

これはかくいう高校1年生、つまり16歳の自分が書いた文章で、高校の文集の抄録を抜粋する。多分だけど、著作権はまだ俺にあるから、俺が無断転載しても罰は当たらないと思っている。

 

読書感想文。まず第一印象は、「今より柔らかく、読んでもらう人に向けて書いてるなあ」ということ。次に、「予防線の張り方は相変らずだなあ」ということ。そして、

「自分のなかで、アイデンティティたる部分って実は5年以上経っても変わらないんだなあ。」

 

ということの三点。

特に、いや、やっぱ俺は俺のこと大好きや、一生お前に投資し続けたるわってまた確信したのは、やっぱ、自分をしっかり持って生きていこうな、そういったメッセージをひしひしと感じざるを得なくって、こいつを書いたことをしっかり忘れていたことを踏まえても、これがある意味での人生訓で在り続けているんだなと思った。それは内面的、ごくごく核心的な部分で。

 

それでも、人間はやっぱ変わってしまうなって思ったのが、文章の書き方が明らかに変わったこと。今の方がよっぽど自分本位ではある自覚はある。逆に言えば、昔の自分は周りに媚びすぎであると思う。別にそれを悪いとは思っていないけど、今の自分はどうも寂しいように客観的に見て感じざるを得ないのである。自分の言葉の使い方は好きで、それは昔も今も変わっていないし、だから書き物を楽しくこんな歳になってまで続けているなあって思っているんだけど、やっぱり対象顧客は誰なのかって話。マーケティングブランディングを特に抽出した概念で、自分の価値観をどんな人に、どういうニュアンスで、どういった温度感で伝えたいのか?そういった意図は、各方面の書き物で正直な話使い分けて投稿している節はあって、ここなんて顕著にほかの投稿媒体よりもエゴで、自問自答で、自己回帰な世界だ。そんなのを定期的に覗き込む物好きも世の中には存在しているのだから、世の中も多様性にあふれているなあと思う。

 

今、ここで上文を批評しなおすようなことはなくても、付随したエトセトラはある程度大人になった今はくわえることができて、

 

例えば、自分が、ナルシストになれなくて、こんな生きているだけで面倒な世界、生きていけんくない?だから、自分のこと愛せなきゃ駄目だよねって話。自分のここが駄目だって反省することは勿論重要なうえで、そうやって自己解析できる俺おしゃれじゃん。って思えないと、やっていけない。やはりそれは間違いないことだった。

 

協調性は大事なのは今も重々承知だ。でも、やっぱりこの5年忘れていても何度も言っていた、自分らしさ。だとか、自分が持っている譲れない芯の部分だとか、そういったことを大切に生きていくのはまじでえもいなって思うし、逆にそういうの無しに生きている人って、人生何が楽しいの?って偏見がある。自分がこうしたいとかこうありたいって思うことは、青くてもいいから忘れずにいたいことで、それをあきらめたとき、哲学的ゾンビとなるのだろうって哲学を齧って自己回帰できる。そんな自分が堪らなく愛おしくならない?やっぱ俺ってすげえわ。ブレないな。そのブレなさ、なかったらとっくに人生身投げしてたよ。

 

 

そう、それは完璧的で、綺麗ごとに他ならない。社会はそううまくはいかないから、自分で納得のいく捌け口がないとやっていけない。それは酒なのかもしれないし、メンヘラすることなのかもしれないし、寝ることなのかもしれない。それは、人それぞれあったとして、その捌け口を、いかに捌け口と周りに見せないか、そう見えない、ああ、なんかあいつはまた変なことやってるな、って、へらへらいい具合に無関心を決め込むことができるような、そんなある程度一定の距離感と評価を得られるような人間づくり、大切だと今はすごい思っているよ。自分のストレスコントロール、昔話したような気がしているけど、自分のあんまりきれいじゃない所って、人に見えないように、もっとすごいのは、人に見せているのに、きれいに何故かみえてしまうような捌け口ってすごい才能なんだよね。そんな常にプラスの生産性、いや、まあ、別に誰に対してもマイナスイオンを放出できればそれは理想だけど、それが自分の自分らしい、そうしたいという生き方なのであれば、そうしたいよな。人間徳積んでなんぼだし。

 

自分のことを、人格が完成された完璧な人間だとは思っていないけど、今ある自分の身の置き方っていうのは、死んだ後でも誇れる、無形の一生分のプライスレスな財産だと思ってるよ。それが俺で、俺もそう納得してるから。わかる人にはわかってくれればいいしうれしいし、わからん人にはわからんままあとは無関心決め込んでくれればお互いストレスフリー。いい人生だね。