カプチーノ現象

内向的自己回帰型排斥主義OL

当たり前に考えない

最近これだと思うことがあっても、書くときに忘れてしまっていたり、病んでると思われそうだから表現の工夫に困っているとかけないみたいな事象が続いている。

 

ある種、ネット上でタブーとされている話って色々あって、政治だとか、人間関係だとか、宗教だとかがよくある例だけど、表現の自由がなんやと言わんばかりに、人はなにかと制限をかけられて生きているんだなあと腑に落ちない感情が生まれる。

 

そういうものと対抗して、常に戦っていかないといけないと思って書き物をしているわけではあるが、まだ精神的に幼い部分もあって限界がある。

 

自分の意見を持つことが必ずしも正しいとは思ってはいない。むしろ粋がって必ず周りと違う意見を持つことこそが浅ましい。

 

自分の核となる部分が確実に構成されたうえで、自分の意見であったりに意図を持たせなければならないはずだ。

 

逆に言えば、意図もないのに明確な意思表明を、してはいけないということだ。

 

なぜか?この問いに常に答えなければならないはずであって、それを放棄するのは怠慢である。

無意識に周りに合わせたり、逆に周りと逆の意見を言ってみたりするのは勝手なのかもしれないが、その思考放棄は個人を個人として尊重できていない確かな例で、自分が自分を認めていないと同義であって確かなのである。

 

明確な意図無しに、というのもある種オブラートに包んでいて、世の中には多く大衆に染まってしまうような詰まらない人間が実に多過ぎているということだ。かくいう自分もその1人であって、普通に起きて、普通に活動して、普通に寝るだけの毎日が普通に過ぎ去って行く。

 

もしかしたら、多くの人間は、

「自分は周りとは比較対象とされるべきでない独自固有の人間なのだ」

と言っているのかもしれないが、その人間の表現方法を見れば大体明らかだ。

 

デジタルネイティブと比喩される昨今の若い世代は、勿論SNS投稿について、教科書を読んだわけでも、義務教育で習ったわけでもない。それなのに、だいたいの人間は、名前を隠せば誰が誰だか判別不能な投稿ばかりしてしまう。我々はそれを個性と呼べるのだろうか?それぞれに色を感じないで、ずっと同じ薄い味のした素麺を食べ続けているような感覚。我々はそれでいいのか。そこに意図はあったのか、自分というブランドを確かに持ったうえでの表現なのか。

 

そう考えると、もしかしたら自分はゲームの中のプレイヤーで、周りの人間はすべてNPCなのではないか?という錯覚に陥る。大衆は単純である一方で、複雑な生き物で、権威のある人間には、崇拝もしくは憎悪の感情いずれかを向けている。

 

政治というのは本当に機能として破綻していると個人的に感じるのだが、そのなかでの国民が主体となって政治に参加するという国民主権。我々は向き合って諸問題を考えているのだろうか?多くは無関心もしくは何か偏向的なものに無意識に影響されて生きている。それが本来正しくある姿なのか?きっとそうではないのに、気づけば我々は、何かの陰謀論でも何でもいいけれど、誰かに騙されたまま浮遊して生きなければいけないのだと思う。

 

最後に言いたいのは、例えばある人のそれを測定(とても烏滸がましい表現なのは承知している)するなら、確実に質問の質を見ればいいなあとこの二十年の人生で実感している。質問には人間性が出る。これは例外が無かった。