カプチーノ現象

内向的自己回帰型排斥主義OL

才能論

例えばだけど、人間は生まれながらにしてステータス数値が割り振られる。

仮に成長個体値を10000とおくと、その10000の値を様々な能力に割り振るのだ。

 

まあ自分で決めることは出来ない事がほとんどなわけだけど、例えば勉強に極振りした奴は東大に行くし、運動神経に極振りした奴はスポーツ選手になる、

逆に全く数値を振り分けられていなければ、苦手なこととなる。運転能力が著しく低かったり、コミュニケーション能力が著しく低い人がいたりすれば、それが該当するだろう。

 

それは先天的なものに他ならないが、もしそれを主観的、意図的に振り分けることが出来れば、それこそ人生イージーであるはずで、自分が一体どのステータスに秀でているか、分かるわけがないのだ。

 

俗に言う、「天才」とは、それを見つけることができて、自分のものにしている人間のことであると信じている。

 

「わたしには何の才能もない凡人」

と言う人は、まだ自分に極振りされているステータスを見いだせていないのだ。そういう意味では、俺の定義する才能論においては、人間一人ひとりが必ず何らかの分野において天才であると思っている。誰しも1つくらい、誰にも負けない要素がないとさみしいしやるせない。

 

かくして、その自分の極振りしたステータスを探すことが、人生を生きる意味の1つであると考えている。それはもう、人間は誰でも豊かに生活を送りたいわけで、そのためには、自分にしかできないこと、自分が一番になれる何かが必要なはずで、それは必ず自分にも持っているはずだ。

 

自分にはなんの才能がないから、そう決まり文句のように言う人がよくいるが、それは、俺の思考からすれば怠慢だ。人生においての怠慢。卑屈になる才能があっても仕方ない。

 

何かできることを探してみようという意欲であったり、活力がない人間に魅力はない、そう自分の中では思っているから、なんでもやれるだけやってみたいなと日々感じる次第なのである。

 

さて、そういう自分はどうなのか?

 

自分は器用貧乏だ。だいたいなんでもできる。少し本腰を入れれば、だいたいのことは、平均並みかそれ以上の技術力を持つことができる。それは自分が先述したような意欲を持ってやればの前提ではあるが、自分のためになるならなんでもやりたいし、自分が好きな人の力になれるのであれば、身を粉にして奉公したいのだ。

 

でも逆にそれは、自分が飛び抜けてすごいと言える分野、1番になれる分野が無いと言っているようなものだ。自分は何に対しても2番目で良いのだろうか?1番になりたいという欲望とか、そういったものがあったほうがいいのではないか?何かの1番になることはそこまで重要なことなのだろうか?そういう葛藤もありながら、「こだわらないことにこだわる」を座右の銘とし、なんでも広くやってみたいのだ。それも一種の才能であるのならば、自分は救われるのかもしれない。

 

 

なんでもできるということは、何もできないという事だ。

 

そつなくこなすということは、秀でてこなすことはできないということだ。

 

 

それを続けて、俺は許されるのだろうか?

ある意味での怠慢で、ある意味での努力は報われるのだろうか?それともダメだと言われるのだろうか。