カプチーノ現象

内向的自己回帰型排斥主義OL

哲学的ゾンビとの争い

人間は、ある重要な選択を終えてしまったあとのほうが、その選択肢についての再考察の機会を迫られがちだと思う。それは認知的バイアスも若干含まれているのだろうが。

 

もし、もう一度人生が強くてニューゲームできて、好きな大学好きな学部に行っていいよって言われたら、間違いなく自分は、文学部哲学科に行くと思う。

そういわれてみれば、高校の文理選択で、理系を選択したとき、

「お前は文型で倫政とってる人でしょw」

ってある子に突っ込まれたのを思い出す。

 

哲学っていうのはほんとうにおもしろくって、だから何?経済的成果は?って言われるのはそれはそうなんだけど、世界の、人間の本質を知れる、突き詰めていくっていうのは非常に痛快で、自分としての在り方、正しい生き方、社会へのアンチテーゼ的な側面も踏まえて、実に魅力的な甘い蜜だ。

 

ここ数日で、哲学熱が再点火しちゃって、ネットでいろんな過去の思考実験の考察記事とか読んでみたり、近現代思想のなりゆきとかを調べてオールしてしまう社会的にはやべぇ奴になりつつあるんだけど。

 

最近何もしてなかったけど、少し環境が整い始めたから、しっかり学問を再開しようかなと思っている。大学で学べることなんてたかが知れている。そういうと非常に語弊がある。

正しくは、自由という名のもとに限られた一分野しか先行的に学べない、という意味で、たかが知れている。

本来は学問というものは縛られるべきではなくて、学びたいときにネット記事で調べたり、おもむろに本屋にいって文学のコーナーで1時間立ち尽くしてみたり、そういったところに愉しさがあるのだ。

 

ここにしっかり宣言すると、これからやる学問、学士は以下だ。

 

経営学→これは当然。皮肉にも、自分は経営し人間を指導する立場にいてはいけないことは自覚している範疇だが。

 

会計学→社会人として最低限に必要な部分としての資格だ。実は簿記2級を取ると、自由単位という分野が無条件で埋まってしまうことに気づいてしまった。

 

統計学→データは閲覧する権利がある。それを読み解く能力の有無は問われない。しかし、バカは騙されて頭のいい人間が得をしてしまう世界。

 

マーケティング学→広く根底の部分で。Promotionがほとんどになると思う。なぜ?を突き詰める悦びを知ってしまったので。

 

・哲学→言わずもがな。思考実験にも近頃興味が出てしまったのだ。学ぶことが尽きることはきっとないのだろう。

 

思いつくだけでもそれだけ。自分が欲しいと思った知識を、実現可能な範囲に手を伸ばして手に入れることができる今の環境は、決して当たり前なんかじゃないことを自覚すべきだ。ここで自分に釘を刺す。

 


[𝙵𝚞𝚗𝚗𝚢] 【𝚃𝚠𝚒𝚝𝚝𝚎𝚛漫画】意味が分かるとヤバい漫画『下校時刻の哲学的ゾンビ』

 

さて、自分の対人倫理観を語る上で、結局まとめると、

哲学的ゾンビ

という概念は切っても切り離せない存在であることは、今までの書き物や生き方をご覧いただけば解るだろう。詳しくは調べてみて欲しい。

 

クオリアがない状態のことを、この書き溜めでは

「モブキャラ」と過去に定義した。

 

誰しもが一度は考えるんじゃないかな。という事象

 

「もしかしたら、自分はあるゲームの世界のなかの住人で、自分を取り巻く環境はすべて自分のために用意された世界なのではないだろうか。」

 

自分以外のみんなが、自分と同じように意識があって生きているという確証はないし、もしかしたら、こんな自分の思考回路も、最初からプログラムされたもので、ほんとうの自分が自由意志で選択された世界ではないのかもしれない。

 

自分とは。

自分のやりたいように生きる。そこに他者の評価だとかしょうもないことに囚われて生きて、自分らしく生きていけなくなるなら、それはモブキャラだから生きてるだけ苦痛だ。なんてことを過去にたしかに言った。

 

でも、そんな「自分らしさ」というものも、じつは夢想で、ほんとうの自分なんてじつはどこにもいなかったら?

 

哲学的ゾンビについて深く考えさせるゲーム作品に、FFⅩがあるので、時間のある人は是非プレイしてほしい。ゲームバランスも非常に戦略的な面白さもあるし、ほかのシナリオリードも魅力的なので。

 

非常に自己中心的な考え方極まりないのだが(こんな前提を入れるのがいまさらでバカバカしいのだが)、自分の人生の主人公は自分だろう。どんなにオブラートに包んでも、他人が主役で、自分は他人の助演男優賞目指して人生を生きている!なんて人はいないだろう。

 

そんななかで、自分と自分以外のテリトリーの話。もしかしたら、自分がコントロール可能だと思っている範囲内も、何者かに支配されて、意識を失って生きているのではないのだろうか?

意識を失って生きるのは悲しいことだ。

だから、最後まで抵抗していたい。

バイオハザードで最後までウイルスと闘い、ゾンビを倒す人間であるように。

 

毎度毎度SNSを貶して申し訳ないのだが、SNSなんてモブキャラだ。多くの情報は結果的にセグメントわけが容易に可能で、ユーザー名を隠したら、独自性とか、個性とか、そういったものが主張されているような投稿をしている人間が、いったいこの世の中に何%いるのだろう?ある特定に抽出された1人の「閲覧者」からすれば、彼らの投稿は一つのキャラであり、クオリアから離れた、没個性の、プログラムされた筋書き通りのシナリオでしかないのだ。所詮他人への興味なんてその程度のものではないか?

 

自分という意識が、他者を哲学的ゾンビ化しているのか、それともそもそも他者が哲学的ゾンビであることが自明で、演繹的にあてはまっているのか。それは誰にもわからないことだが。

 

そのなかで、自分自身が既にゾンビになっているのではないか?という不安は押し殺して、最後の最後まで抵抗していたい。別に他人と違うからかっこいいとか中二みたいな動機でもいいのだと思う。

 

ただただ、自分が自分あらしめる、クオリアの部分での確証となる材料が欲しい。

今の自分の思考は証明たりえない。まだ不十分な回路だ。

何か、爪痕を残すことは可能なのだろうか?

 

こういった問答が楽しいと感じるのか、馬鹿馬鹿しいと感じるのか。

そういったところで、生きても生ききれない苦痛があると思う。苦しくて、嫌で、絶望に打ちひしがれて。

 

自分が、自分の完全なる自由意志で動いていることを証明してみせよ。

そうやって自分の本心のみで生きているつもりの人生は、果たしてほんとうにそうなのか?