カプチーノ現象

内向的自己回帰型排斥主義OL

「かけがえのない」ってそれほんとうに重要なの?

1時間後、突然自分が事故死したとする。

自分が死んでしまえば、意識は完全に失われ、意味もなく終わりを告げるのだから、本来別にどうでもいい杞憂ではあるんだけど、いったん考えてみて欲しい。

 

自分がたった今、ほんとうに突然死んだら、このあとどうなるのか?

 

自分の話をする。

まず、一番困るのはバイト先だろう。

キッチンに入れて、レジを締められる人間は俺しかいない。俺が入らない日は社員の人が締めに大体必ず入っている。キッチンができる人がいない。自分がもし死んだとして、もって2か月かなあ。とりあえず、キッチンができる人がもう2~3人揃うまでは死ねない。

次に部活か、2つ入っているけども、どっちも結局重要な役職に所属しているけど、残念ながら、自分は比較的有能らしくて、どうやら自分が抜けると事務的処理を真面にできる人間がいない。自分は正直リーダーになる器じゃないって話をしてるけど、やるべきではない。

 

まあ、そんなこんなで、今死なれたら困る!って立場。それを「代わりのいない存在」という風に良いように言えば風当たりはよいが、ほんとうにそれでいいのか?

 

昨今はAIに代替とかが流行ってるけど、それでも「代わりがいない」のが素晴らしいんだよなぁ。

 

自分の現状に満足不満足とかそういうのは置いておいて、

ほんとうは、しっかりと人間は高いレベルで高水準で当たり前が遂行されるべきだ。

自分のレベルが高いなんてそんな傲慢なことは言わない。

さあ、果たして、合理的解釈のもとに、人間は一人ひとりが適切に、真摯に対組織レベルで貢献できているのだろうか??

 

集団帰属意識を持てというわけじゃない。俺なんて人間が嫌いだから集団もクソも組織もクソくらえだ。

 

そのなかでも、「最低限円滑に進めるべくして進めるための最低限の仕事」

を世の人間の多くは達成できないのか?

そういった組織の集団心理、少し興味があるから、勉強してみようと思う。

 

人間は誰にも強制されないとさぼる、だらける性悪説に沿った生き物だ。

何に制されれば人間は動けるのか。そういった組織行動的な心理。

それは集団であるから、組織であるから必然的に性悪となるのか?

それなら、組織なんて無いほうがいいに決まってる。

 

民主主義、国家主義、そういったものがはびこる社会でできてしまったなれ合い。

集団心理というものは大嫌いだ。大嫌いだけど、興味があって調べてしまう。そんなパラドクスにある種の快感を覚えてしまいながら。

 

集団活動は苦手だ。これは昔から思ってることだ。この話をすると病んでるの?とか言われるからアレだし、ちょっと論点がずれ始めるからあんまりここでは言わないけど。

 

やはり、個人という事業主がそれぞれ独立して生きているべきで、そのなかでの、自然に出来上がる組織というものが理想郷だということに留めておく。

 

さて、かけがえのない。聞こえはいい。ただ、それって本質的には自分「しか」できないことなのか??それを問う。

 

少しは頑張れば自分じゃなくてもできることなんじゃないか?

 

それを

「キミキミはこれこれができるから有能だ!すごい!天才!うんち一人でできる!」

そう言われてどうだ?

果たしてどうだ。俺はミリもうれしくない。

自分が本当に評価されたい観点から評価されるのが、人生冥利に尽きるのではなかろうか。

 

いやはや、自分ができることって、バイアスがかかって当たり前に感じるだけで、ほんとうは凄いことなのかもわからなくもない。

 

それなら、自分ってレベルが低いんだなあって痛感してしまう場所に常に身を置きたい。

自分が現状に満足したらそれまで。だからこそ、自分より常にレベルの高い人間が集う場所にいて、必死にかみついて、踏ん張って、なんとかみんなについていって頑張る。そうやっていた集団では、過去何パターンも成功事例がある。個人的に。

だからこそ、自分が身を置く環境って意外と大切なんじゃない?ってことと

 

自分が「代わりのない」場所になったら、自分としての成長はそこまでで打ち切りになるんだろうな、と。そう思わざるを得ない。

 

なぜか?人間は制されなければサボるから。