カプチーノ現象

内向的自己回帰型排斥主義OL

1+1≦2

背理法を用いて証明する。

1+1 > 2 であることを証明しよう。これが偽であるとき、命題は証明されることになる。

何か一つのものを作り上げ、成し遂げるとき、なぜグループにならなくてはならないのだろう。

さいころからそうではないのかな。幼稚園、帰るときも手を繋いで二人で帰ること。小学校のクラスで席替えがあればだれが隣かで一喜一憂してみれば、中学では特に女子では顕著にグループ化が生まれて、一つのグループのなかにさらに小さなグループが産まれていく。そんな階層化された社会観は高校にも引き継ぐ。どういうわけか、やはり人間は一人では生きていけない。誰かに頼って、頼られて、持ちつ持たれつ。

どういうわけか、そういった社会観はいいとも悪いとも言われずに、気づけばこうなっているんだろうな。

 

それ、本当にいいと思ってる?俺は一ミリも思っていない。

結論から言えば、なんでグループ活動なんてしなきゃいけないの?ってこと。

これは小学校の頃から思っていること。最近思ったことでもない。

頑張って思い出せば小学校のいつだったかな、4年くらいかな。

総合学習でよく模造紙発表みたいなのがある。あれで先に言えば全然できなかった。まともなものができなかった。先生に怒られた。なんでここまで何もしなかったんだ。って。

それまで、少年時代の自分は、夏休みの宿題なんてものも1週間前くらいには終わらせることがほとんどだったし、宿題をして、次の日の授業の教科書をランドセルに詰め込んでから寝るタイプだった。それだけ用意周到な自分がなぜできないのか。それは個人ワークではなかったから。

自分が特にそう、いや、人間みんなそうなのかもしれないけれど、人は集まると馴れ合いが発生する。相手の雰囲気から空気を読んで、それっぽい最適解をさがして、周りに合わせて大したことのないことを話す。それで作業効率が上がるとは果たして考えられない。

何も複数の活動をすることが悪いとは言っていない。ただ、1人でワークをして、そのフィードバックを客観的に評価できる相手に聞いて、それを複数人に実施することで自分の考えを整理し、改善すること。それでだめなのか。

だめなんだろうな。

人間性悪説だと信じて疑っていない。だから、だから、嫌なんだろうなあ。

自分ならもっとできるのに、自分ならもっとはやくできるのに、自分ならもっとやるのに。

そう思っていても、口に出すことは拒まれる。それがグループというもの。

100%の自分の考えで何もかも動かせたなら、楽しいのかもしれない?

それは違うかな。自分が世界で一番有能なら、それが言えるのだろう。ただ、それは無理だ。自分よりすごい人なんて世の中にわんさかいる。

だから、だからこそ、自分ひとりで、差を感じたいんだ。すごい人と自分の差を。

グループは中和されるだけだ、平均されるだけ、それは合計にも乗算にもならない。

自分が平均を上げている場合、それは自分の評価と全体評価に差が産まれ、自分は過小評価されることになる。

逆に、

自分が平均を下げている場合、それは自分が過大評価されることになる。俺はそちらが罪悪感しかなくて、堪らなく嫌なのだ。

過去の経験から、グループワークはそういうものだから、別に自分が低く見られてしまうのは構わないのだ。それはグループを組んだこと、つるんでいるのが悪いのだ。ただ、逆に、自分が大きく見られてしまうのは本当に嫌だ。自分は目立ちたくないといったらウソになるだろうが、誇張して目立つのは本当に嫌だからだ。

だからこそ、なるべくありのままの自分を見せたいし、多重人格のそれぞれが大切だからこそ、いろんな面をありのまま出すことを厭わない。ただ、それを何らかのバイアスにより、自分に似た何かコピーのようなものが世の中のイデアが勝手に独り歩きするのが嫌で仕方ない。

自分は自分でちゃらんぽらんなのは否めないが、

他人に

「あいつってこうだよな」

そう言われるのは心外なんだな。間違っていたら特に。

だから

「あいつはよくわからんけど面白いやつだ」

そう、一定の距離を置かれた評価をされるのがいいな。斜に構えてる感じが格好いい。

だから、なんだか、一人が楽なんだよなあ。

そう思った10歳ごろの自分と、10年生きた自分。こうやって一人は形成されて、誰かと関わっては、こういう結論が一番正しいんだな、何度も顧みることになる。

みんなは、一人はイヤ?

まだ答え、本当の答えはわかってない。