カプチーノ現象

内向的自己回帰型排斥主義OL

本棚はいつも自分の名刺に

本棚くらいは、いつも自分のことを表現するような棚でありたい。

 

高校までは、主に課される勉強だったのかもしれない。たくさん学ばされて、絶対的な点数という価値のもとに競争を強いられていた。

 

さて、大学に入ってから、本を読むようになった。書店に行って、ふらふら彷徨って見つけた本を何となく手に取り、買う。そして、読む。

そして、読み終わったら本棚に並べる。高校の時に買った小さなラックの本棚は、3分の1くらいは高校までで読んで好きな本を持ってきて、今は大学で買った本を含めて満杯になりつつある。

 

やっぱり、知識をつけるのは楽しい。知識をつける、というよりは、自分の知らなかった世界が広がる。知っているつもりだったことが地盤から覆される。その感覚が狂おしいほどに好きなのだ。物語文学はあまり読まなくて、最近は自己啓発とか、経営関連とか広告コピーの本にばかり焦点を当ててしまいがちだけど、自分がこれだ!って書店で受容体に反応して、手にとってそう安くはない金額を払って読んだ、それだけ価値のあるほど自分が知りたいことばかり。

 

近年電子書籍化が進んでいるけど、僕はやはり紙で買いたい。それはページをめくる楽しさだったり、厚み重みであったり……

でも何より、本棚という自分のもう一つの顔ができることにある。

 

もし、何かに行き詰まった時、自分の知識の本棚のなかから引き出して何かヒントをもらう。そんなことをたまにしている。特に米澤穂信氏の著書の中、古典部シリーズのミステリーは何度も読み返してしまう。一つひとつの言葉に感情が揺さぶられて、ひとつの言葉の定義を深く考えさせられて、一人ひとりのキャラクターの細かな描写にいろんな趣向を巡らせて、嫉妬、尊敬、憧れ、期待、失望、好奇、そして薔薇色の何か。そんな言葉の波を、断片的にどこか覚えていて、現実世界で僕が何かそれを思い起こさせるような出来事が起きた時、本棚から古典部シリーズの小説を取り出して読む。読んで思う。あぁ、人生は本とともにあるんだなぁ。と、自分が得た知識は誰にも奪われることはない。自分の感情、アイデンティティの完成形は、きっと読んできた本から生まれていくのだろう。自分よりずっとすごい先人たちの築いてきた日本語の塊の大きな流れを少しでも掴んで、一度読んでももしわからなくても、ふと断片的な衝動と共に、何度も紙をめくって、自分の人間としての深さを掘り下げていきたい。そう思って、どんなに人生忙しく周りが見えなくなってしまっても、本を読むことは細々と続けてやめないやうにしようと思う