カプチーノ現象

内向的自己回帰型排斥主義OL

随意性

例えば、ポケモン。みんなはポケモン何が好き?多くの人は「ピカチュウ」って答えるかもしれない。アニメでは主役のお馴染みピカチュウでも、実はゲーム内ではトキワの森っていう序盤の森で低確率で出現するポケモンなんだ。

 

ラッキーとかもそうだけど、草むらの中でなかなか見つからないポケモンってのがいて、見つけるまで何度も何度も野生と戦って、ついにでたときの感動って、人生で恐らくまあまあ初めて感じる

「なかなか会うことのないけど、あったときに感じる嬉しさ」

と思うんです。

 

さて、何故こんな話をするのかというと、今こうしてSNSが普及しているし、離れた人ともいつでもコミュニケーションが取れる時代だけど、「毎日触れられる日常感」よりも、「たまにしか触れ合えない非日常感」もたまらなく好きだなって思うこと。特に人間関係には、個人的にそれが言えてしまう。

 

例えば、突然恋愛的になるけど

「私たち、一度距離を置いたほうがいいと思うの」なんて言葉があるけれど、それはあながち間違いではないのかなと思う。

 

毎日会って、それが身体に馴染んでしまって、それを当たり前だと勘違いしてしまう。失うまで、その大切さを忘れてしまう。むしろ、大切さを隠してしまってぞんざいな扱いをしてしまったりする。

それが、怖いなって少しでも感じてしまう。人は良いところを見つけると同じくらい人の悪いところも見つけてしまう生き物。長くいればいるほど、ストレスが増えてしまうかもしれない。

だからこそ、「知らない」ほうがいいこと、「気づかない」ほうがいいこと、沢山世の中にはある気がする。もっと言えば「知ってても気にならない」と思うのが理想ではあるんだけれど。

いつか触れたけれど、自分は、固執されるのも固執するのも嫌いだから、誰かに常に監視されてるような感覚が非常に嫌だ。それでSNSが嫌になったことなんて数えきれないくらいある。だから、って言うのもアレなんだけど、たまに会う。ということが大切なんだなと思う。温度管理と空調管理の手法。

 

あまりにも引っ付かれたくない。俺は俺、君は君。君が興味のないところまでまで俺にひっつく理由は何?意味はないよね?そう思うから、人に深入りはしないし、逆にされたら跳ね除ける。でも、だからこそ、興味のあること、共感できることが見つかったとき、そのときに誰よりも素早く手を伸ばす。そしていっしょに気持ちを分かり合える場所、それこそがSNSなんじゃないかな?って感じてる。だからこそ、人の趣味とか、そういうのにいろいろあーだこーだ言うのはなんだか筋違いに思える。人は人、僕は僕。一日で一度はツイートしてしまう僕ではあるけれど、僕は稀な頻度で、不特定のある対象であるみんなそれぞれ個人個人一人一人になにか引っかかるツイートができればいい、それだけで、それは1%でもいい、残りの99%は流してくれって感じ。多分それが一番ラクにネットという流れ行くものを攻略する最適解だから