カプチーノ現象

内向的自己回帰型排斥主義OL

「友達」について

ここ最近の人生で、俺結婚式で呼ぶ友達いないなって話が話題になっていて、なんだそれって思うかもしれないけど、ちょっとお時間よろしいですか。

 

小学校の時、女子ではやりになっていた、「プロフ帳」懐かしいよね。?を入れていいのは2個まで!みたいなルールがあって、キャッキャしてたのが思い浮かばれる。

だいたいそういうのって、男子は「かわいい子」とか「好きな人」とかで隠しがちなのも、これまた若いな~って思うこと、あると思うんだけど。

 

今渡された時、「親友」って言葉で詰まる。

 

正直な話、ほんとに昔から「親友」という言葉に抵抗がある。

それは、単に、自分が親友だと思ってるけど相手はそうでもない、

みたいな不安からくるものではなくって。

 

なんで、自分の交友関係のなかで、たった1人の人間に固執しなくてはいけないのか?という疑問からくるからだ。

さいころから「みんなと仲良く」とか「ケンカしないで」とか、

友達百人作って登山して白飯を食べることを良しとしている歌もあるように、みんな平等に仲良く在るべきなのに、結局人はなぜ、人間関係に優劣をつけてしまうのか?

 

その矛盾に耐えられなかった。仮に1人の「親友」に固執してしまったとき、自分の視野はそこまでしか広がらないし、小さい括りでしか盛り上がれない人間、クソ詰まんない人間でしかないのだ。

 

あるとき先生が言う、

「テキトーに2人1組になって」

この時、例えば、物理的に「親友」(笑)と距離が離れていたとする。その時、その相手を求めて鼻息荒く移動して2人1組になるのが嫌で仕方なかったし、客観的に達観して、それをしている人間が滑稽としか思えなかった。別にそれ自体を悪いなんて言わない。ただ、彼、もしくは彼女は、その親友なしにどう生きていくのだろう?相手が風邪をひいて休んだら?不慮の事故がおきたら?

別に自分の人間関係に保険をかけろなんて冷徹なことを言ってるわけじゃなくて、そんなに小さいコミュニティでいることに、満足して、何が楽しいのだろう。

 

こういった悩みを、昔親にぶつけたことがある。どんな時に、どんな気持ちで話し合ったかは、あまり覚えてないけど、やっぱり母親は小学校教諭である肩書もあって、やっぱり子どもの思考とか、行動とか、そういったものを読み取ってしまうらしい。

「お前にはお前の生き方があるのは、わかるよ。そういったことに共感し、賛同して対等な立場でいてくれる人が、結果的に親友になるんじゃない。」

 

そういったニュアンスの言葉を返されたのを記憶している。小学校のいつのころだったろうか。こうやって年齢だけは積み重ねてしまったけれども、こういった感情はやはりまだ蟠りとして残るものがある。

 

それでいて、思春期から一貫して「浅く、広く」という価値観を貫くことになる。

人間にあまり深入りしない。というのも、その他人自体にあまり興味が無いこともあるが、何よりも、自分自身が、ある特定の人物に拘りすぎたくないのだ。

 

毎度引用するのは古典部シリーズだが、

"こだわらないことにこだわる"(福部里志の言葉) こだわり派の人間は、時として執着し、無駄に意味のない人生を歩んでしまうのではないだろうか。

 

あまり当事者が見る可能性があるのは気にしないとして、

だいたいいつも酒が回っていてもいなくても言う言葉なんだけど、

高校の話、自分はいっつも高校全体の雰囲気をこういった評価をしている。

一般的に人間に当てはまる、という意味を込めていう。

 

「あそこさ、なんかちっちゃい輪の中でしかイキれない奴らがくっそしょうもない内輪ネタで盛り上がってて、寒くない?もっと大衆受けするネタつかえねえのかな?ちょっとコミュニティから外れて、他人以上知人以下の人間と話すと突然萎縮するし。余程つまらん人生歩んでるかコミュ障なんだろうな。」

 

高校の知り合いがもし不慮の事故(笑)でこれをみて気分を害されたら今度会ったらおでこにパンチしていいから。でも学校全体ではこんな感じだなって今も回帰するよ。あんまりこれ続けると人間としてのボロがでそうなのでここで結んで。

 

そういうわけで、まあ、人間それぞれ価値観とか言葉の定義の仕方はあるのはわかってる。そのなかで、自分、わたくしめとしての一般的な定義のなかでの友達はきっといない。

 

世の中馴れ合いの塊と波みたいな気色の悪いものが渦巻いていて、非常に気分が悪い。

 

当事者がどう思っているのかはわからないが、「その場しのぎ」という解釈での関係は友達と呼ぶのはいささか不誠実だ。親友もそう。

 

たった数日顔を合わせただけで、ひと一人の価値観とか、感情とか、何がわかるというのか。たった何度か話して、SNSをフォロワーとなって投稿をみて、こんな掃きだめを少し読んだくらいで粋がって

「あいつはな、これこれこういう人間で○○だ」

って評価されるのが一番心外。

2018年、某日にそういったことをされて至極不快に感じた。それをされた相手はなんとなくとも「友達」であった。もしそれがSNSによるものなら、俺はもうSNSなんて一生やらない。そう決めて2019年は生きている。

 

人間と中途半端に関わることが増えた近現代、何をどう自己と他者の区別を持って生きていくのか。それが正直なところ難しい。それでも、自分自身、他者とかかわるうえで、リスペクト、思いやりなしに親密な関係を築くのは不可能だと思っている。最近の若人の関係を俯瞰的にみて、この2つが圧倒的に欠けている。自分自身も相手をリスペクトできない。それなら、自分がいろんな人間を所かまわず、バカの一つ覚えみたいに、「ともだち、友だち、トモダチ」って言って回るのは、いささか不誠実で、滑稽で、自分を安売りしたしなしなの葉物野菜だ。そんな人間になるくらいだったら、1人で構わない。孤独でも孤高でもどうでもいい。