カプチーノ現象

内向的自己回帰型排斥主義OL

できる人間は自分を呈示しない

これは理想論であるし、こうありたいというか、こうあるべきだと思っているから、自分も、そうやって日々実行しているつもりでも、できないことばっかりではあるし、それを猛省して日々生きているから、戒めの気持ちを込めて書いていく。

 

本当にすごい人間というのは、自分がすごいということはアピールすることはめったにないし、自分について何か多くを語るということは少ないと思う。

 

逆に言えば、その人がある何かについてある種執拗に誇示している場合は、それ自体にコンプレックスがあって、自分を大きく見せたいのではないか?という帰結に至るのである。

 

 

言いたいことは二つ。

そもそも、本当にできる人間っていうのは、自分を主張しすぎないこと。

もう一つは、

中途半端にできる、もしくは自分ができると勘違いしている人ほど、自分を主張すること。

 

論点はこの二つ。

 

あんまりすごい例えをしてしまうと、誰かにドストライクして普通に悪口言ってしまうから、少し言葉選びを慎重にしてしまうんだけど。

 

例えば、あるプロスポーツチームの話をしてみる。自分はプロ野球が好きだからプロ野球の話をする。

 

試合はさておき、練習の時とか、なかにはうまい選手、下手な選手、序列が高いベテラン選手、肩身が狭い若手選手がいるなかで、彼らが練習に対する熱量というのはチームとしてはほぼ同じ熱で高い状態にあるべきだし、そのなかで、

「俺はこれできるからやらんでええわ」

「俺は偉いから、誰かそれやっておいて。ただ俺が求めるクオリティから逸脱したらいちゃもん付けるわ」

「俺は成績残してるから試合前のバッティング練習先でいいよね」

とか、そういった傲慢な思考回路は生まれちゃいけないはずで、そのなかでどこかに犠牲になる人、我慢してニコニコしている人がいるかもしれないって思っているから、組織はなるべく各々が役割もあるなかでフラットな関係性がないといけないはずだと思っている。それが理想論で、机上の空論であることはわかっているんだけど、それでも、同じプロスポーツ球団としての役職にいるときは、同じ関係性の人間として普通はフラットな立場でいるべきだと思う。

 

その中で、すこし話が脱線して、尊敬する先輩像、同時に自分がこうありたい人間像ってのが、気持ち悪いくらい後輩なのに、へりくだって話してくれる人、本来は先輩なのに、後輩みたいな先輩っていうのが理想だと思う、詳細は別にいうことでもないから言わないけど、舐められるくらいが丁度いいのだと思ってる。ベイスターズにもそんな選手がいて、ある内野手なんだけど。先輩後輩っていう関係性は昨今で変わっているのかもしれなくって、そのなかで、要するにイジれる先輩のほうが居心地がいいに決まってるし、年上なのにイジれるって、一種の尊敬を包括していないと俺は出来ない。

 

そういった意味をまとめて、それが理想像なのではないだろうかと。まあ、先輩後輩とか考えなくても、年齢でも、成績でも、階級でも、いろんなことで比較されてしまう世の中だからこそ、話し合いだったり、決まり事だったり、日々のルーティンだったり、些細な事で互いをリスペクトできる組織のほうがいいに決まっているし、自分の経験上、自分がかかわった範疇でも範囲外でも、そういった組織はやっぱりすべてにおいて強かった。この強さは様々な定義を含んでいる。そして、やっぱりその中で顕著なのは、年長者であったり、要約して言う「すごい人」が凄く俺の言う理想に即した人たちだったと思う。昔は縦社会だったということを聞くと、時代も変わるんだなという感想を持つ。

 

 

次、それが困るのは、大してすごくもないけど、勘違いしてしまうと、何故か自分はほんとうにすごいんだって勘違いして舞い上がってしまう。別にそれ自体何も困らないのかもしれないけど、俺個人の表現で言えば、本物のプロに失礼だ。

確かに、プロスポーツ球団に所属した、という既成事実、レギュラーになった、という事実はそれ自体素晴らしいことだとは思うが、井の中の蛙である。だから何だ、自分より上にいる人間はもっとたくさんいて、自分はこの地位で満足してしまっているのか?人間、満足してしまったら、そこで成長はストップされるようにプログラムは組まれている。それを堂々とひけらかすように誇示すること、例えばSNSで、例えば世間話事あるごとに折に触れて。。。。

あさましい。それが本当に美しい姿といえるのだろうか?

自分の中で、一番凄いと思っている陸上選手は、基本的に自分の競技について自分から話すことはないように思う。日本一の選手だとか、そのレベルに立つと、本当に自分に、まわりに真摯だと思う。凄いのに、プライベートではほんとうにそうでもないっていったら失礼なのかもしれないが、そのオーラをみせない。能ある鷹は爪を隠すのだろうか。しかし、競技の話をすれば、そのオーラは確実に、どっと顔を出す。あの時の恐怖とも言えるぞっとするような身震いは快感すらある。

プロ野球とかそれにかかわらず、いろんな分野でトップに立つ人間というのは、自分のその分野での話題を自分から切り出すことってないんじゃないか?もし、自分がその分野でトップをゆくアーティスト、有名人、そのたスポーツ選手がいたらSNSとかを見て欲しいんだけど、確実にその自分の得意分野以外での私生活が充実して、その話も半数近くしているように感じる。

 

本当にすごい人間は、自分から語りださなくても、周りが勝手に語ってくれるし、アンチも必死こいであら捜しをしてくれるものだと思う。自分で売り出さなくても、勝手に売れていく仕組みってそれこそマーケティングだけど、その人個人の人となりって、やっぱりすごく大事で、でもやっぱり尊敬できる人間は、自分の得意分野で自分を誇示せず、意外にも私生活ほかの分野を表現したり、話してみるとたくさんの引き出しをもっていて、非常に教養深い、育ちがいい人間だな、という印象を受ける。この決定的な差が、器の大きさだったり、その分野での大成度合いであったり、そういったものと関連があるのかもしれない。

 

それこそ、よく、「審判に当たりが強い選手は大成しない」という節のオカルトがあるけれど、ほんとうに、これって自分に対して傲慢だと、大成しない。という俺の持論の二側面に合致していて、非常に理にかなっている。やはり、自分の知っている世界が狭いから、と言われてしまえばそれまでだが、その分野でトップをゆく人間というのは、どこまでも謙虚だし、人間としての引き出しが広くて、器も大きい。だから、尊敬できる。自分はそうなりたいけれど、なかなかそうもできないし、そもそも人間として破綻しがちで、特別才能に富んでいるわけでもないから難しい。

 

だから、自分語りすると、自分はしょうもない人間だよってブランディングしている節はあるし、実際しょうもないけど、卑屈になるのはルール違反。

自分が自分の能力以上の評価をされるのは、気持ちのいいことかもしれないけど、ある種の重みとなるからこそ、自分のやっているあれこれを粛々と誰に頼まれたわけでもないのに報告するのは、こちらがわの一方的な自己満足で、俺が有能で人生が充実していることなんて全世界の人間からすればどうでもいいことで、むしろ妬みの原因だとか、間違ったブランドイメージの形成だとかあんまりいいことはない。だったら、自分はできないように、いや、それも実は正しくなくって、自分については多くを語らないほうが素晴らしい。特に何かの組織体や、所属についてや、ステータスに関することは。だって、多くの人間はそれ自体に興味がないんだから。だいたい、ファンタジーの世界でも、二枚目で、クールであんまり自分について多くは語らないんだけど、主人公一行を支えてくれる実は有能な人間が一番かっこいいじゃないか。例えばFF10のアーロンさんとか、ハルヒの小泉とか。

 

自分のなかではそう思っていて、だからこそ、自分が何かつぶやいたり、投稿するときは、本当に、心のどこかで、それについてああ、俺はコンプがあるのかもしないなあ、と自己で回帰しがち。でも、そうやって他人の投稿を見ると悲しくなるよ。