カプチーノ現象

内向的自己回帰型排斥主義OL

費用対効果、という概念

大学生活が、終わろうとしている。

 

 

 

4年ある "猶予" のうち、既に2年と10か月程を消費した。

 

 

単位について言えば、今年でほとんど取り終わるし、望んでも望まずともまずまずの成績を取ることができている。

 

自分が、大学に対する考え方が前半と後半でガラッと変わってしまって、それでもこれは俺の考えだって信じて突き進んだことがある。その話をまとめておこうと思う。

 

 

入学時からしばらくは、要約すると「食べ放題で元を取る」生活をしていた。

 

 

受験期から入学時にかけて、親が自分にどれだけの金額を費やしてここに居させられているのかを痛感した。入学金、授業料、生活費…。

はっきり言って、ある意味でそれは重荷で、自分は、

 

「ここまで金をかけてこの自由たる環境を用意してくれたのだから、

絶対に死ぬ気で勉強に励もう。真面目に生きよう。」

 

そう考えるようになった。

受験期で勉強をすることには慣れていたし、割とタイトな日程でも自分なりにいい成績を取れるように努力したし、真面目に出席、授業参加を続けた。得た成績は、ある意味自分への勲章でもあるかのようだった。

 

ほかのみんなは。この言葉には語弊が生まれてしまう。

「より一般的な大学生」は、寝坊に自主休校、親の金で遊んで酒飲んで、大学生活を謳歌するのが宿命かのようだ。

 

その考えが正直自分には理解できなかったし、そんな生活をして俺は両親に合わす顔がないと真剣に思っていた。世の中には大学に行きたくても学費が無くて奨学金を借りたり、よもやその余裕もなく中卒、高卒で働いている人もいるのに、我々大学生は学問を修めるという上流階級の贅沢を親の資産を食い潰して嗜んでいる。

 

これがどれほど凄く恐ろしいことかを、なぜ一般ぴーぽーは理解できないのか。そういう憤りすら感じさせる瞬間もあった。

 

勉強ははっきり言って楽しい。学ぶことで得られるものは大きい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ただ、その考えに少しだけアレンジを加えた転機が訪れたのは、2年の後半あたりからだ。

根幹の部分は変わっていない、勿論今も親の金を食い潰し生きている自負はある。

 

しかし、そのなかで、自分は所詮「大学の勉強しかできない汎用性のないオツム」でしかなかったのだ。

 

世の中には、一つだけ自分が特化しているものがあればそれで良い、という人はいるし、一理あると思う。

でも、それは果たして本当なのか?その特化した一つが無くなってしまったとき、自分のポケットには何が残っているのだろうか?

 

大学の勉強ができても、もちろんそれは最高レベルでできるわけじゃない。それでも、周りからしたら「中途半端にできる」だけでしかない。大学を卒業すればそれで終いだ。大学の学問を完璧に習得してできる名誉は、きっとそのまま学術分野に進まないと使いようが無い。

 

じゃあ、自分がもっと他に手に入れたい武器とは、何なのだろう。

 

 

 

 

 

 

ある時、自分は親の金を代償に「時間」を手に入れたのだと知った。

 

4年間、好きに生きていいという猶予。何にも属さなくて良いという猶予。最低の業務は、「食べ放題の元は取ってください」ということ。授業料を納めた分だけ、その学士で知識を蓄えよ、と、そういう根端だ。

 

さて、振り返ってみるとどうだろう。俺が学んだことは机上の理想論。教科書に沿って進められたケース解析、答えと事例のある世界。しかもそれを評価するのは社会でも市場でも経済でもなく権威ある賞でもなく、教員の一存、学生のなかでの優越感それのみなのである。

 

所詮、小さい籠のなかで必死に飛ぶ練習をしていたに過ぎないことに気づいた。

 

それは、自分の人生設計に適切な時間なのだろうか?

違うなら、もっと何かを変えなくてはいけない。

 

そう、そうして始めたのが仕事だし、書き物をするというこういった表出活動(利己的だが)だし、もっと自分の興味のある分野の本を読むことだし、自分の人生をデザインするということである。

 

与えられた何かじゃなくて、自分から手を伸ばして得られる何かが快感だし、

 

何よりも、皆横並びで同じことをしなければならないことが、あまりにも自分にとっては性に合わなくて、嫌になってしまっていることに気づいた。

 

皆同じように大学に入って、同じように普通に過ごして、普通に就活して、普通に卒業する。それって、何が楽しいの?

 

それってぜんぶ、じぶんのやりたいことだったのだろうか?

 

 

 

 

気づいたら自分のポケットは空っぽで、手を伸ばして手に入れた環境では、いつも自分が籠の中でちょっと良い鳥だったことに過ぎない現状に絶望した。

 

だからこそ、2019年は必死こいで自分のシステム設計に尽力したし、誰よりも凄い稼げる社会人になる準備としての活動を進めたのだ。

 

 

大学の授業は、ちゃんとは出席した。ただ、勿論90分集中しなくなった。

 

ラジオのように聞き流す。面白いと思ったら手を止めて、じっくりと聞く。何かあれば意見を仰ぐ。それが一番心地いい。

 

提出物も、正直評価よりも、

「自分の書きたいことを書く」ということに集中するようになった。

 

あまりにもフォーマットからずれるわけだから、評価はしにくいものだと思う。

 

なぜ、そんなことをするのか?

 

自分は、短期的に見た「大学でのSだのAだのBだの評価」よりも、

長期的に見た「自分が成長すると思うこと」に投資をするようになっただけだと思う。

 

良い成績を取るメリットと言えば、周りからチヤホヤされることと、研究室の配属が優先されるくらいで、あとはあんまり価値はない。

 

当大学は給付型特待生奨学金が貰えるわけじゃないし、親からの仕送りが倍増するわけでもない。院に進むわけでもないから、大学教員の好感度なんて大したものじゃない。

 

かえってそれで、自分が

 

「誰か、何かにとって都合の良い型にはまった何者か」

 

になるのだとしたら、それは願い下げだって返上した。

 

ただ、まったく大学の授業が無駄だとは思わないからこそ、ひたすら「内職」して、

「ながら講義」をするわけである。そう言えば高校の受験期もそんな人間だった。人はいつも回帰し循環する。

 

 

データ分析の授業で、教科書通りに進めた「これ」が、いったい自分の人生なんの価値があるのかと真剣に考えたことがあった。だからこそ、自分は働いて実際に予算を預かってデータを分析し運用することで、責任と成長を得た。

 

いくら良いアイディア出しをしても、それが一部の人間にしか評価をされないなら

経済価値は低い。それなら、実際の会社でアイディアを出し、市場に投げたほうがよりためになる。翻って見れば自分は、内輪のノリ的なやつが堪らなくだいっきらいな人間だ。こういうことは上記のような価値観を裏付けるのだろう。

 

 

 

 

自分は組織に対しても人間に対しても機関に対してもそうだが、

評価を割と分散させる。ここが駄目だから全部ダメ、とは拒絶しないのだ。

 

良い所悪い所あるから、悪い所は極力避けられるように立ち回って、可能なら煽って悪口言ってスッキリする。

良い所だけをかいつまんで、その技術を盗んで自分の蓄えにする。そういうずるい生き方が性に合うのである。

 

さて、話を戻すと、自分の猶予はあと1年と3か月だ。

 

この時間で、自分は何を手に入れたいと思うのか?何を捨てようと決断するのか?

 

そういうことのほうが、はっきり言って何よりも興味がある。とてつもなく合理的に生きるのである。