カプチーノ現象

内向的自己回帰型排斥主義OL

過程は見せないから美しいんだと思う

努力の過程は見せるべきではない。

 

もし自分がプロだと思って、いや、仮にプロでなくてもプロ並の気持ちで、それに近い真摯な態度でそれに対しているのなら、努力の過程は決して見せるべきでないと思う。

 

なぜか?なぜなら、結果が求められる世界だから。

 

 "自分は何々あれこれこういうことで今頑張っています!これから何々をどうこうします!今日は何々をどうこうしていて、何々がどうこう楽しかった!" 

 

的な感じの報告を逐一するのは不道理で真摯的でない。そう思っている。スマートな人間は、

 

「あぁ、あれ?それなら結果的にこういう風に出来てるよ。その分野においては前線に立てるくらいには詳しくなったつもりだから、何かあったら聞いて?」

 

てな感じで、そつなくこなしているように "一見" 見える。きっと裏では真摯に努力しているし、その姿はきっと敢えて言えば醜い。それ自体を美しさと俺自身は捉えている、客観的に見ればそれは美しいんだけど、主観的事実からは、それは醜いもの、そう捉えているから人様には見せられたもんじゃない。そう言いたいわけだ。

 

そこが、俗に言う「意識高い系」と「意識高い」の決定的な差分だと自分の中で解釈しているよ。自分は意識は高い方だと自覚しているけれど、決して意識高い系にはなりたくはないから、努力の過程を見せたくないし、それを晒すのは恥ずべき行為だと思っている。あくまで主観的に、だけど。

 

本当に大切なことは、だけどね。たしかに大して真剣に取り組んでいなければその過程は晒しているのかもしれない。それでも、それを醜いものと見せないように表現したいし、見た目よりもつまらないものだとか、キツいものだという印象を受け取らないように努めている。これも陰でだけど。

 

 

 

例えばそうだな、受験勉強の話でもしよう。

 

例えばある人は、自分がやったことを一々だれに頼まれたわけでもないのに報告して、テストの結果、模試の結果も間違いなく公表して、

「あぁ!俺頑張ってますよ!」

感を出している。いや、それを違った意味でやっている人もいるのは勿論知っている。それで自分にプレッシャーを与えて弛まず努力して自分よりもずっと優秀な大学に進んだ彼を僕は知っている。それでも、半端な気持ちで何かと晒す人がいる。彼らと一生懸命頑張るキミを同じカテゴリーで括るのは陵辱的なストレスを感じるけれど、それでも、晒すべきではないと何度でも言うよ。それはその投稿で単純にストレスを生む人間がいることもそうだし、それで満足して、陶酔しきって、自分が承認されることに力点を置きすぎて、本来の自分の目的を見失ってしまっている人がほとんどだからだ。

 

逆に、よく嫌味みたいだが、

「私全然勉強してないよ〜〜」

と言って、平然と高得点とって

「私なんて全然まだまだだよ〜〜」

と謙遜する人。それも自己防衛を張り巡らすこと、悪いことではないけど、これもまたストレスを生む原因になってしまうのも事実。

 

こういった層が幾度となくいるのは、受験という人生のイベントの中で、多くの軋轢であり、亀裂が生まれる原因であることは間違いない。

 

さて、ここで、俺の理想とする(これは実際に出来たとは言わない。そんな傲慢なこと言えないし、出来ていて完璧に遂行できたら、自分はもっと知識人で凄い人間で、ずっと優秀な大学でずっと優秀なことをしていただろう)姿というのは何なのか?

 

それは、一言で言えば "寡黙" である。何も話さない。黙って努力を絶やさない。そして、結果で全てを語る。結果を出してから、勝利に至るまでの過程を語る。合格体験記が近いのかもしれないが、個人的には合格体験記というバイアスの塊を信じていない。語るのも、おおっぴらに語ればいいものではない。求められれば、語るのである。求められていないのに語ればそれはウザいという評価になるし、求められてもあまりにも広く語ってしまうと、それぞれの聞き手のスイートスポットにぶつからないだろう。

 

だからこそ、聞かれた時に、個人的に深く聞かれた時に、その人にあった語りをすべきだと。そう思っている。

 

自分の人生、どこまで周りの人間が興味あろうか?それは、周りのAさんBさんのことを俺がどれだけ興味があるか?という質問から形式的に理解できよう。悲しいくらい人は人に対して無関心だ。だからこそ、自分に対して関心が深い人間がいればいるこそ、そこに対して真摯であるべきだ。話が逸れているが、多くの人は興味ない。だからこそ、意味のない自分語りは一切必要ない。必要だと感じてくれた人に自分語りはするべきだなと。

 

寡黙の美しさと、承認欲求との狭間に生きるデジタルネイティブ。そのバランス感覚の養成はいちはやく求められていると同時に、自分を形成しているのは、ネット上の活字がすべてなのか、現実世界に佇む細胞の集まりのそれがすべてなのか、やはり真剣に考えなければいけない。