カプチーノ現象

内向的自己回帰型排斥主義OL

自分は大したことない人間だと思う

謙遜でも、傲慢でもなく、自分は大した人間ではないと思う。

 

特定の誰かに著しく愛されているとも、憎まれているとも思わないし、

代替可能な物事をただ日々こなしているだけである。

そこに確かな「自分らしさ」を持っていたとしてもそれはあくまでも自己満足の範疇であり、その自分の世界観が多くの人間の琴線に触れることも無いし、その自分のしたいことですら、何かの模倣であり、追随した結果であるのかもしれない。

 

それら一部一部の選択肢はたしかに別れていて、自分はそのなかでもこの選択肢を選んできたという自負があり、それが唯一無二のものであったとしても、自分は、いったいこの世界、この社会、この文明に何を残せているというのか。

 

そのレベルで考えたらそれは、人間の8割以上はほぼ無意味な存在、マジョリティーとしての、感情なき大衆としての役割でしかない。それはあまりにも悲しいことだから、あまりそういう考えを持つのは、よした方がいいとは思う。

 

ただ、自分が優れた人間であるか、そうでないかは自己評価ではそのように決めたとしても、他者からの評価はそれぞれだ。

 

「尊敬」とか「凄い」とか、そんな言葉を並べられていったいなんだというのか。

自分は、謙遜もなく客観的に見れば、多くのことを要領よくこなすことができるのかもしれない。でも、それはトップレベルの水準ではない。下がいることは確かだが、確実に上もいる。それなのに、「俺ってすごいんだ。やったね。自己顕示欲満たされましたわ。」って思考回路に至る人が確かに存在すること。非常に皮肉を込めて「うらやましいなあ!」と言いたい。

 

ましてや、自分が周りよりできる、という事実は、ほんとうに考えれば「井の中の蛙」でしかない。自分は小さい組織体の中で自分がトップに立って満足しているようでは、人間として器が小さいし、成長が見込めないと思ってしまう。

自分が何かに真摯に取り組むうえで、小さな目標はあれど、やはりその道のトップを往く人の姿勢を見習いたいと思う。なぜならその人が一番序列が上だからだ。小さな組織体で優等生であっても、マクロ視点からすれば、100人中20番程度の普通の人間だ。

 

そんな20番目の奴が、ませてて、調子こいてて、偉そうで、何でも分かった気でいたら、上の人だって下の人だってムカつくし、尊敬の対象たりえない。だから、せめて姿勢だけでも、真摯で謙虚で従順でありたいと思ってやまないのである。

 

自分が世界で一番その分野で凄い人間なら、それはそれは背骨が折れちゃうくらいふんぞり返りたい。下で偉そうなこと言ってる二流の鼻を一人ずつへし折りたい。でも結局、自分が崇拝する一番上にいる人って、もれなく真摯ですごくて謙虚で自分の確たる世界観を持っているから凄い。そういった人間でありたいといつも思うわけだ。

 

同時に、自分の今持つ力に絶望するのである。自分は本当に無力だ。この社会に間違いなく必要な人間だという確たる自信がない。いや、逆にそうでないと自負できる人間は世の中にどれほどいるのか。

 

自分が死んだら、ということを考えたことはあるだろうか。自分が死んで近くの人が悲しむかもしれないが、大変な思いをするのかもしれないが、自分が死んで半年もすれば、自分が死んでしまって空いたはずの穴は、自分と同じようなほかのだれかに埋められて、自分がいなくてもどうにかなる世界になっていく。その穴の痕跡が無くなれば、自分が存在していたことすら、わからなくなってしまうのだ。

別にだからなんだ、というわけではないし、ほとんどの人間は結局どうあがいてもそんな人生でしかないのは残念ながら真実だ。

 

例えばヒトラーのように、自分が死んだら一つの社会が、文明が、世界情勢が一変するような人生だとしたら?

 

彼らは、果たして人生幸福度は高いと言えるのか?

そんなの知ったことはないが、自分はそういう生き方は向いていないと思う。

 

でも、自分が今できることとか、得意なこととか、実はそうでもないんだよなって客観的に思ってしまうんだ。

 

「あなたが一番」そう囁かれても、「いや、そんなことないでしょ」と考えるのが人生なのである。

承認欲求とか、人は誰しも持つわけだけど、でもその本質が正直個人的には意味わからなくて、人のその欲求に終わりはないと考えているのである。

 

恋愛なんてよく引用される例で、この世界で、あまねく人が蔓延っているのに、

ちょっと物理距離が近い人間、接触頻度が高い人間に、

「あなたが一番好きで大切な存在」

なんて言えるのはなんだかおかしな話で、対象のどこをもってそう言っているのかは人それぞれだろうが、それもある意味では「代替可能」なのでは?

 

たとえ恋愛でなくても、自分が何か評価されたり、褒められるときに、なんだかありきたりな指標だとか、「仕事ができる」だとか、「凄い」だとか、顔がいいだとか、そんなものを要因にされても、きっと響かない。うれしいとしてもその場限りだ。

 

そういってひねくれた考えを持っていた時に、昔ある人から言われたことが本当に心が浄化されたように透き通って、いい意味でも自分を見つめなおして、これから自分もそういったことを与えられる人間になろう、って思った出来事があるから共有したいんだけど、

 

結構大切な思い出だからすっごく話を改変させると、

自分が過去にした行動、思った考えを相手と共有していて、あとになって

「あの時のあの行動、あの言葉がすっごく嬉しかった!」

と言ったように、自分が起こしたアクション(これは間違いなく、唯一のものだし、代替することは不可能だろう)で、嬉しかったとか、いいなと思ったとか、その価値観に共感した、とか、話してくれた時が本当に嬉しいんだよな。特にそれを自分が覚えていたらなおさらだ。

それを言ってくれた人のことは今もいつでも本当に好きだし、この好きの分、沢山恩返ししたいなって日々思って生きているんだけど。中々不器用で出来ない。

 

別に自分は誰かの、とか、何かの、とか、どこかの、とか、一番になりたくて仕方がないというわけではない。むしろ、自分は誰かのサポートキャラでいるべきで、白魔導士でありたいと思うわけだ。しかし、じゃあ我々はどういう意図で生きて、死ぬのだろうか。死ぬまでは人は生きている。それを長いと感じるか、短いと感じるか、死が怖いと思うか、そんなことないと思うか。