カプチーノ現象

内向的自己回帰型排斥主義OL

ネットは現実の延長線上にあって良いのだろうか?

先に言っておくと、自分はSNSないしネット上での自分を表現する場所というのは、現実世界の延長線上であってはいけないと思っている。

 

なぜか?理由は実は単純だ。

 

  1. ネット上でも多面性の無いような浅い人間で居たくはないから
  2. 意識してもしていなくても、その閲覧者は無限に存在する可能性があるから
  3. 現実世界から直接的コミュニケーションを除いたネット世界では、きっと人間関係関連でボロが出てしまうから←社会不適合なので

以上の3点が挙げられる。

 

1.人間は多面性があるからこそ、美しくもあり醜いのだと思う

多重人格は好きだろうか?

この質問に、”Oh,Year.Hum?” と一つ返事で答えるような人間は

きっと少ないだろうと推察する。

皆、「在りのままの自分」をさらけ出すことを良しとし、

それを暗黙のうちに強要するのがこの社会の嵯峨であることは間違いない。

 

裏の顔があれば何かと嫌なゴシップが流され、勝手に幻滅されるような世の中。

 

しかし、ここで問いたいのは、「人間の在りのまま」の姿というのは、果たして一貫性があり、たったひとつしかないのだろうか?というものだ。

 

人はどこかで温厚な面もあり、冷酷な面もある。

教師に歯向かうヤンキーが道端の猫を慈しむ瞬間、誰にも屈しない芯のある女性がふと屋上で物惜しげに煙草をふかす瞬間、我々はその一見アンバランスな光景を受け入れないでいるのはいたく相手に対し不誠実なのではないか?

 

人は多重人格だからこそ魅力に溢れ、自分が知らなかった相手の一面を折に触れて向き合い、受け入れることで、関係というものを構築しているはずだ。

相手の行動がだいたい読めて、こういえばこう言うだろうし、どうせこういうときは何も言わず肯定してくれるし、大体ほとんどのマジョリティーと同じ意見を持つような人。

 

彼らに何の魅力を汲み取れば良いというのか?

 

自分は、大した魅力のある粋人だと胸を張って言えることはないが、多趣味で寛容的でありたいとは常日頃から思っている。

 

生物学的な話になれば、自分自身が多種にわたる受容体を持って、いろんなものを受け入れることができるし、それ以上に沢山の酵素を産出して、常にいろんな種類で、いろんな分野で「面白いこと」「変なこと」「合点がいくこと」をすべての人で何らかの形で提供したいと考えている性分である。

 

要するに、現実世界とネット世界のコンテンツを使い分け、自分自身をブランディングする過程において、「現実とネットをあまりにもリンクさせすぎること」は無粋だ。

そう主張したいし、そう自身で思っているからこそ、なるべくネットは現実の延長線上では居たくないと思ってやまないのである。

 

2.お前のプライベートなんて大して人類レベルではちっぽけでしかない

今日は、もしかしたら誰かの誕生日だと思う。

だとしても、我々はそれを祝うことはしない。

なのに、なぜ人は親密な人間や自分の誕生日を特別なものと定義するのだろうか?

 

生まれた日のことを覚えている人間がどこにいるのか?

生まれた日は、多くは親に聞いたから知っているだけだ、戸籍でそう登録されたから知っているだけだ。すべて事後的で客観的な判断材料だ。そんなリアル感のないものをめでたく思うことが、不思議でたまらなくなる瞬間が昔あった。余程今より屁理屈が過ぎていた頃のことである。

 

生まれたこと自体がなにがめでたいのか?「おめでとう」なのか、そして「ありがとう」なのか?

そんな禅問答をしてもしなくても、悲しいことに、それは人類のなかではごくごくごく小さい一組織のなかの一端でしかないのだ。

 

ネットは実は一つの発言が全世界の人間がvisibleな線上に落書きをしているものに過ぎなくて、人類何万年の歴史の情報の記録されることのない儚い1情報に過ぎないのが現実だ。

そんなところに、我ここに在りといわんばかりに、他人(大なり小なり)に自分のプライベートをさらけ出す必要性がどこに感じられようか?

 

まして、自分だけならともかく、

自分とAという知人の話をしたとして、その2人に関連するあれこれについて、両方の人間を知りそして彼らの情報を知りたいと思っている人間は世の中でどれほどいるのか?

 

たとえ仲が良くても、相手のことをプライベートまで会っていない間のことも事細かに知りたい!そう感じている人は自分の交友関係で何人いるというのか?

 

その情報公開を「自己満足」というのなら理解はあるが、「より多くの人に自分のことを知ってもらいたい」と思う承認欲求からくるものなのであれば、よそでやれと、思うことがある。ここの線引きは非常に可視化されにくいものであるが。

 

もし、自分の本当に大切にしたい気持ちや、共有したい想いがあるなら、それはなるべく多くの人の目に触れないようなところでやるのがいいと思う。

 

大切なモノは大切にしまっておくからこそ、見た時の価値が大きいのである。

それが手の届かない範囲であるからこそ。

人が神を崇拝できるのは、神が目の前に現れない非常にスピリチュアルな概念だからである。

日本の天皇制も、現行の憲法が施行されるまでは、天皇は神である扱いだった。

だからこそ、天皇を直接謁見することなんて一般ピーポーからは到底不可能なことだったし、見えない部分が多いからこそ、彼を崇拝できた構図があるのだ。

自分が本当に好きで大切な人というものはごくごく限られてしまうのは先に断っておくが、本当に大切な人のことは他人との話題で一切取り上げない。それが誠実であると思っているし、それほど崇めているからだ。こういう考えを互いに持ってくれている人は、多分だけどお互いに理解があって個人的にはいい関係を築けていると思っている。

 

3.「活字はなんでも言える」はあまりにも短絡的でいささかお里が知れる

段々と口が悪くなってきたことをお許し乞いたいが、最近はSNS表現の自由の場であるということを託けて、意識的なのか無意識的なのかは知らないが、人を傷つけたり、間接的に人の悪口を言う浅はかな人間が多すぎる。この悪口は意識的に言っているから安心して欲しい。

 

例えば、ただ自分の気持ちを表現するなかで

 

「~~よりも、○○のほうが良かったわ」

 

と発言したとする。

「~~」の気持ちを考えて投稿しているのか?

 

多分していない、恐らく普通に~~のことが嫌いであると思うのだが、にしてもネットで、面と向かって言えない感じが、実に "オツムもキンタマも" ちっさいんだろうな、と覗える。

 

先述した通り、意識していなくても、ネットの投稿は全世界すべてに知れ渡る可能性を秘めているのだ。それが、その投稿自体を見られたくない人にも見られる可能性があるということだ。そのへんのリテラシーが明らかに足りていない。

人はそういう時に都合のいいように

「個人情報!プライバシーの侵害!」

と声を大にして訴える。なんと醜い光景だろうか。

 

ネットは面と向かって言っていないからこそ、その言葉が独り歩きして、自分のブランディングイメージを形成する一端となる。ましてや今のデジタル社会では、現実世界のブランディング能力よりも、ネットのそれのほうが大きく関与する、ということは極めて珍しくもない。

 

「なんでも言える」とは反面不自由なものである。

自由とは形式的に自由なだけで、かえって不自由であるのだ。

別に一々人の目を気にして発言を控えたりオブラートに包めと言いたいわけではない。

「それを言ったからには」自分の行動に、言動に責任を持てよ。

 

ということである。それらに一貫性が無い人間、間違いを素直に認めることができない人間は総じてレベルが低い。

 

オブラートに包むと、相手にするのが面倒なだけだ。