文書と文章
最近読んでいる本のなかで、
「文書と文章」の違い
という話が少しだけ気に入っている。
前者は、論文、レポートに代表されるように、これは、「読んでもらうため」というよりは、「情報を受け流すため」にあるという。
それに対して後者は反対だ。それらは「読んでもらうため」「理解してもらうため」に存在するのである。
研究論文、レポートを好き好んで愛読書にしているという人間はそう多くはないだろう。彼らは可読性に欠け、もしかしたら読みにくい文字の集まりなのかもしれない。
しかし、それらは読みにくさを代償に、多くのエッセンスを含んでいる。
書き物というのは、「読みやすさ」と「情報量」は住み合わせることは不可能なのだろうか。
よく、バラエティ番組で東大生が紹介されるとき、お決まりのように
「東大生は話す速度が速い」
という件が必ずといっていいほど起こる。
彼らは、その読解力ゆえに、1秒当たりに得られる情報が多いほうが嬉しいから、速くしゃべっている、というロジックが非常に興味深い。
自分は、ここで書き物をしていくうえでは、明らかに「文書」を書いているように思う。
これは、自分の思考を整理したいとき、自分の価値観を後になって読み返すために記している側面が強いから、原則として、不特定多数の読者を想定していないのだ。これはあくまで保険をかけている訳ではないが…。
自分の思考を頭の中のみで整理するのは難しい。自分は記憶力が良いほうではないので、割とすぐに忘れてしまう。
面白いことに、中学あたりから、自分の言葉で何かを書き残すこと、ないし自分の思考を整理することが多くなって、気づけば21にもなった。過去の書き物を読み返した時、ああ、この時はこんなこと考えていたな。今となってはバカバカしいとか、当時の思考を忘れてはならないな、とか、日々内省する機会が生まれ、非常に人生とは面白いものである。
自分の語彙は、割と好きだし、自分が思ったことを、自分が書きたいような表現でありのまま書くことが多い。その時の言い回し、語感の良さが気持ちよくて使うこともしばしばだ。数打てば当たるではないが、多くの言葉を記して、ひとつでも何かヒントになるものがあれば。。。そのスタンスで生きている。
まさに、自分のボケの価値観と同じだ。
「質より量」なのである。
ただ、こうして、様々なご縁のなかで、ライターまがいのお仕事を頂くことがあるたびに、悩むことがある。
それは、自分はあくまで「自分のための文書」を書いてきただけで、
「公のための文章」を書くことに、経験が無いということだ。
あくまで、自分の私利私欲を満たすために書いてきた書き物。それはあくまで文書他ならない。
それを、経済的にも、社会的にも還元し、「公が読みたいような文章」「評価される文章」を書いていく難しさといったらこのうえないのである。
昔、「芸術はなぜ、評価される立場になければいけないのだろう」と思ったことがある。
それは小学校の夏休みの宿題だったと思う。
書道コンクール、ポスターコンクール、彼らはあくまで芸術の一端であるはずなのに、金賞、銀賞、佳作、最優秀賞と別れる。
芸術には、これが正しく、これが間違いだという明確な評価基準は存在しない。
今までにない発想が評価されたり、素人目から見れば、「子供みたいな作品」が高値で卸されることがあるのだ。
それが不思議で堪らないことがあった。
しかし、結果論として、それは「評価されるか、されないか」「経済的価値があるか、ないか」で、それは評価される。その傾向、データから導き出される、「不確定な要素」こそが教科書となる。世の中に絶対など存在しないのだろうか。
そんな、不確定な世界を歩んでいくことの、何たる不安たることか。自分がただ好きで書いている狭い世界では、ただの趣味として生きていられるが、それが仕事になった瞬間の怖さである。
自分が、前例にあるように、他人の気持ちを極端に理解できないがゆえ、ここまで難しさを感じるのかもしれない。そうでないにしても、この作業は非常に困難たるものだ。
だが、それが苦痛だとも思わない。それを探していく作業にも、趣があるのだ。
この、「絶対が存在しない世界」の価値基準をコントロールできる力を持てたのであれば、是非神様がいればお願いして、その一片でも手に入れたいものである。