高校時代のブログがエモい話
こんな書き物を始めたのはつい最近のことではない。
場所を変えては、高校一年の頃から、Twitterなりブログなりで自分の叫びを晒したい瞬間があった。
今となっては、まあ普通に形而上、自分はいろんな人に見てもらえるようなニュアンスでこのブログを晒しているし、
「知りたいなら、たくさんそれだけ知ることができる」
くらいに、自分を表現して、興味を持ってもらった人に知ってもらう場所を提供しているつもり。
それはいろんな形で。文章でも、写真でも、言葉でも。自分はそんなネット社会が大好きだった。これは過去形。
いつしか、ネットは自分を表現できる場所では無くなった。それが辛くて、嫌で、何度も嫌になって、病んだ。
今となっては、最早気にすることすら面倒になった。言わせたい奴には言わせておけ。どうせ人のことあれやこれや言う奴は大体中身がしょーもないカスだからってことに割り切って生きてる。
でも、若い頃笑の俺はそうでなかった。やっぱり、葛藤した。それで自分のこと嫌いになったりした。その言葉がちくちくと刺さったんだ。今も随分ひどいけど、昔の文章の書き方はもっとひどい。
でも、真っ直ぐに生きていたかった。
でもさ、過去の自分を黒歴史なんて絶対に言わないって決めてんだ。過去の思考、思い、色々積み重なったうえでの今の思考にある自分だから。
高2〜大1くらいまでの書き物は、ギリギリではあるけど残ってた。Twitterのアカウントは消えてて、高1の頃の書き物は見つからない。
でも、残っててよかったと思った。昔の心を振り返ることって、割とエモくて、今はこう思ってるとかちゃんと考えていくことができるから。
悩んだから、ぶつかったから今があるって信じていたい。
今このしょうもない書き物を読んでくれてる人が少しでもいるなら、是非、書き物として文書を書いて欲しい。
今の自分の立ち位置と思いは絶対に忘れちゃうけど、忘れたくないものだから。
将来の自分に教えないといけない。今ある叫びを。
叫ぶことをやめた時に、きっと我々はモブキャラに成り下がり、CPUに成り下がる。
自分が自分である理由は、自分で爪痕遺すんだよ。たとえ死んだってな。
今もそう。そう思ってるから。
これも神的な何かに操られて書いているNPCの一人であることは信じたくなはない。これは一種の抵抗。
俺は人として生きたいわけじゃなくて、
俺は俺として生きていたいから。
高校の悩み悩んだ俺に言いたい。俺はここに俺として生きていると。
アンジェラアキは15の君に歌を歌った。
"大人の僕も悲しみを避けては通れないけれど、甘くて苦い今を生きている"
この歌詞がほんとに好きで、
甘くて苦い、今。
それでも、生きてる。生きるとは何なのか。
今生きる意味を、叫びを絶対に残していかなければいけないと思ってる。今生きた意志を絶対に将来の自分に残してあげないといけない。
それを、高校の自分から改めて貰った気がする。
みんな、書き物をしようや。それが言いてえのや。
蛇足、やっぱり昔も今も、総括して「人の価値」の基準を軸にして論じたいことが多い。
人の価値なんてちっぽけなのに真剣に考える。
その中で自分
「他者からの評価」にやはり自分の評価って決められてしまうのだろうか?ってさっき考え直された。自分の評価を自分でしてあげたいけど、他者に評価されることで自分を労わることだって当然起こっている。それと自分である意志とのバランスに非常に難しいものはあるが。昔の自分は相当そこに悩まされていたらしい。もう昔の病み期だから時効だろう。
たしかにラクなのは、自分を自分で労わり尽くす生き方だ。ただ、それだけじゃいけないような気もしてきた。こうやって昔の自分にはっと気づかされること。好きだなぁ、