カプチーノ現象

内向的自己回帰型排斥主義OL

何かを話すときに考えていること

何か物事を説明したり、教えたり、プレゼンしたりするときにいつも考えていることはシンプルで、

 

「難しい内容を面白く、面白い内容を難しく。」

 

こういった内容で物事を考えて、噛み砕いたりして教えていますよって話。

 

難しい、面白いの価値尺度をどこに置いているか?というのは、自分であり、予想される聴講者の思想に拠る。

例えば、法律のこと、政治のこと、哲学のこと、一般的に聞いていたら眠くなるような内容の話。

そういったことは、いかに面白おかしく表現するか?という観点で説明する。

 

世界中の国を擬人化して、世界史実をファンキーに説明している、「ヘタリア」というアニメがある。

まさに、そういった形が面白くって、国家という一見無機質な内容を、人間という感情を持たせた物体に吹き込んで、あたかも物語を見ているように世界史を、各国の文化性をまざまざと表現する。その美しさである。

何か抽象的な概念をモノに喩える、という行為は本質的な概念の理解を軸に構成される。たしかな理解無しには人は比喩が出来ないのだ。そこまで言うと大袈裟だろうか。

 

 

逆に、面白いこと、例えばゲームだとか、アニメだとか、普段の飲み会に至るまで、ある意味脳死的に楽しんでいるイベントであったり、娯楽活動をいかに細分的に分析して、学術的な意図があるか?という観点で物事を見るという面白さも同時に伝えたいと思っている。

そんなこと考えているのは面倒くさい人間、変な奴、そう思われがちな世の中なのはいたく残念な部分ではあるが。

 

例えば問いたい。何故、我々は世の中にはありとあふれた商品が沢山あって、正直どれを選んでも大差ない。それなのになぜ、私は今、このスーパーに入って、この明治の板チョコをかごに入れたのか?

それはスーパーが近所にあり、徒歩で行ける範囲内のなかで最安値であるスーパーだという要因なのかもしれない。その最安値は本当にそうなのか?全商品の平均が最安値なのか、目的とする商品が最安値だからなのか?

そして、選んだチョコはなぜその明治の板チョコだったのか?ロッテじゃだめなのか?なぜ、それに手を伸ばしたのか?その意図とはなんなのか。消費者行動論的観点もそうだが、ブランド論の話でもあるし、はたまた最適化理論に関する内容、人間の心理学、様々な観点から、ただスーパーでチョコを買うという変哲もない購買行動が学術的に説明し得るのである。

我々は日ごろから「なんとなく」という言葉を使用しているが、ほんとうにそれは「なんとなく」なのだろうか? at random なのだろうか?

もし仮に、そのなんとなくに学術的な意味があって、それを説明できてしまったとしたら、面白くないか?という話。

その意図を知りたくて、20年以上経ってもまだ勉強を続けているのかもしれない。そういった意味合いで、自分は実生活にリンクされるような学問を中心に勉強したいと思っている。心理学、哲学もそうだし、会社という概念に囚われず、組織で見た時の経営学もそうだ。

 

世の中のルールは、頭のいい奴が頭のいい奴に都合のいいように作られている。

 

そういった言葉が昔に波及して、どうやらそうらしいが、それを悲観することもない、自分が賢くなれば自分は有利になるなら、賢くなれ。簡単な理論である。

 

逆に、今まで「なんとなく」としていた世界がびっくりするくらい合理的に理解できて、広がっていく世界を見て、楽しさを感じずにはいられないのではないか、そう思っている。

 

だから、勉強が嫌いというのは何かの間違いで、本来は楽しいものである。楽しみ方を教わらなかったか、実社会とリンクできていないか、またはその他なのであろう。