自分は凡人だと気付いたのは何時だろう
『ここは退屈迎えに来て』という作品で、すべての登場人物の中心になるのは「椎名くん」という存在だ。
椎名くんは、高校でのいわゆるリア充だ。彼の周りには人が集まるし、カリスマ性もあるから、椎名くんがすることはすべてカッコよく見えるし、みんな椎名くんに憧れて、好きになって、振り回される。
田舎なら誰しもが経験する「井の中の蛙」。それは、その井戸から出なければいつまでも幸せなのかもしれないけど、一度外の世界を知ってしまえば、その恐ろしい魅力と、自分の魅力はありふれていたものだという絶望と、すべてが、何もかもが没個性と成り下がってゆくあの虚しさと。。
その絶望を知ってしまうと、今いる世界、いや、かつていた世界は、なんと無象で、ちっぽけで、あり得ないくらい灰色だったんだろうって考える。あの時はあんなに楽しかったのに、なぜ?
あの世界が楽しくって、素敵で、すべてで、この柵からでなければきっとずっとシアワセだったのに。人は外の世界を知ってしまえば、自分がこの人しか愛せないって盲目になったあとに、それよりもっと魅力的な人に出会った時、かつてのモノの「退屈さ」に虚しくなってしまうのだろう。
それって悲しいことで、でも、当人にとっては悲しさよりも怒りの方が強い気がした。
自分が凄かったことより、自分が凄くないんだって気付いたときの方が、感情、価値観の騒めきの絶対値はきっと高い。
人は1つだけ誇れることがあればそれでいいって話だけど、その誇れることそのものが偶像だとしたら?
自分は贔屓目に見ても見なくても、凄い人だとかつては思っていた。自分のやりたいことは叶えられたし、努力すれば相応の答えは掴めた。周りの人には褒められて、ちやほやされて、モテて、尊敬されて、、
それを素直に受け取って、愉しんでいた自分。
ふと、気付いたとき、自分はなんでもないこと、何者でもないこと、何にもなれないことに気付いてしまって。それからは推察するに灰色な毎日だろう。途端、周りからの褒め言葉はお世辞にしか聞こえないし、相手からの好意は色仕掛けの裏返しにしか見えなくなってくる。
これらの本質は、本質的に自分に自信がないことにあるのだろう。ここでいう本質的、とは、一般的なフィールドでは自信があるのに、ということだ。
一度これを感じてしまうと、もう何も信じる意味すら感じられないし、それで誰かに付き纏われても困ってしまうのだ。
古典部シリーズ、『いまさら翼といわれても』で、それへの処方箋として「長い休日」という表現を使われていたのがいたく印象的だ。
その休日がこじ開けられるまで、じっと殻に閉じこもっていればいい。死ぬまででも良い。それを無理やりこじ開けてきたおせっかいこそ、その休日を終わらせてくれる人なのだ。退屈さから連れ出してくれる人なのだ。
椎名くんの話でまたすごく好きなのが、
椎名くんは「台風の目」だからこそ、周りはありふれた雨風でしかないということだ。
「私」「あたし」「僕」にとっては、青春を代表する1ページだったとしても、人生を変えた一瞬だったとしても、ゆっくり紡いでいた時間だとしても、
相手には、そんなことは全然なくって、なんなら覚えてすらいない一瞬。時間をつなぎとめていた何か泡のようなモノ。それって辛いのかな、それとも、悲しいとすら感じないのかな。
人は、絶対口に出さないだけで、どこかで他人のうち1人でも「都合の良い関係」ってのを作ってる。自分が困らない、何かを埋めるだけの、一方的に便利な関係。
それって不誠実だっていう偽善者は無視して議論するけど、
その都合の良い関係って、あくまで本当に一方的で、相手がそれを大切な時間と定義していたとしても、私にとってはそれは単なる暇潰しでしかなくって。
キミにとっての私という存在は、
私にとってのアイツという存在だったのかな。
それを、直接伝えられるわけでなく、あとから自分でわかってしまうのが嫌だなあ。
人は誰もが誰かの特別になりたくて、何者かに成りたくて生きてて、騒いでて、認められたくて生きている。みんな何者かに成りたいんだ。
けれど、その一方で、あの人、この人を何者にしてやろうという気持ちがない。結局一番可愛いのは自分で、よそを承認しない。そんな一方的な矢印ばかりが、ねじれの位置的に交差しながら、何本もの矢印がすれ違って、薄くなって、ぽきっと折れて、あてもなく伸ばすだけの人生。それって、つまらなくないかな。
いろいろ考えて、やっぱりいつも辿り着く答えは、
「部屋で布団に入って好きなことしてる、誰にも邪魔されないココが、俺の人生だな」ってこと。これが真理になってちゃってるから、社会的にはだめだなあ。