カプチーノ現象

内向的自己回帰型排斥主義OL

感じていた違和感の正体

就職活動への、ある種食わず嫌い的な何か。

あんまりにも嫌すぎて、スーツを夏に買ったのにほとんど使わなかった。

 

そんな自分でも、さすがに11月からは真剣にやろうと思って、自己分析なんてあまりにも出来すぎていて、業界研究もそこそこに忙しなくしたためる毎日。

 

今のところ、感じていることは2点ある。

 

まず一つは、自分の実務スキル応用がどう活かされているのか?この活動に。

自分がいろんなご縁があって頂いた機会から、自分の知識を、実際にどう実務に応用するか?ということをここ半年で相当なまでに鍛え抜かれて、自分なりに形にしてきた。それが、Google Driveでの情報一括管理、共有のエトセトラ、そして、社会的なマナー。文章体裁、ここまで見様見真似で生きてきた部分があったけど、自分のなかで完成間近のところで、この就職活動という個人的な実務への飽くなき改善とシステム設計とクリエイティブ開発と、すべてに実になっているように感じている。これらが、当たり前のように出来なかった半年前の自分が、このまま何も考えずに生きてここまで来ていたのか?と思うとゾッとする。自己管理能力は自分では高いほうだとは自負していたけれど、それでもまだチャンチャンだった。きっとこれから、もっと自分の至らなさに気づくことになるだろうし、その発見と凄惨の日々が楽しみではある。

自分がこれから生きるうえでの、新卒就職というステップ。自分の20代の8割が決定するビッグイベント。まわりはみんな、「それから」の将来について言及する人、対策する人が多いけれど、実際問題、時間軸は過去、現在、未来へと連続的に進んでいくうえで、「それまで」の自分について、何も考えないのは、自分に対して些か不誠実ではないか?

「自己分析」なんてちゃんちゃんな言葉で表現する就活市場に感じていた違和感。

 

俺たちは、分析するほど価値のある「自己」なのか?

 

…みっともない鏡の前に映った自分、どれだけ凝視してもわからない自分という存在。

自分という存在を、どこにでもあるような、ありきたりな言葉を引用して、自分という何かを表現するのである。いたく浅はかだ。「自己」を分析していくという過程のなかで、我々は何か用意されたキャラの一つに当てはめられようとしているのだ。少しだけ恐ろしさすらある。

 

まず一つ目の違和感は、そこだった。

 

自分は、今までの人生で何度も何度も立ち止まって自分を見つめなおしてきた。

それは、自分が大好きだという要因だけではなく、それだけ多くの挫折、絶望、辛酸、涙があったからだと思う。自分はいっつも、思いあがって自分が凄いんだなって錯覚する。つけあがる。するとすぐ、自分よりずっと凄い人間がパッと目の前に現れて、自分の自尊心をケタケタに踏みにじっていく。そんな凄い人のお陰で、自分がもっと凄くなりたいって日々妥協なき生き方をするんだ。でもそれも、自分よりすごい人って中々現れなくて、それは突然やってくる。

 

大学に入って、いや、東京に来て、自分に近しい人で本当に凄いな、勝てんな、尊敬しかできないくらい自分はちっぽけだ、って感じた経験は、以前より減った気がする。それはちょっとだけ寂しい。

 

パッと思いついただけで、自分が持っていないものを持っていて、強い羨望を持つ、尊敬に足る人物というのは、2人しかいない。

 

最近会った、自分が持っていないスキル全部持っていた完璧超人の人

自分の好きなことを好きって好きなだけ言えて、それで沢山の人を幸せにできる、それを厭わず努力できる才能にあふれた人

 

彼は、彼女は、きっと自分のことを凄いんだって思っていなくて、まだまだなりたい自分がいるからこそ、向上心もっていろんなことできているんだろうな、そう思うと、小さいまとまりで群れるだけで、自分個人として、固有名詞として能動的に生きることができないってなんて詰まらない人生なんだろうなって皮肉めいてみた。

 

少し悲しいことなのは、自分が入ったコミュニティでは、尊敬できる人物はあんまり居なくって、それは突然やってくるから不憫だ。

自分はやや高い確率で、組織内でできるという扱いを受けて、優遇されるように感じる。それが正直悔しい。自分がその温度にしかいられないという現状に。自分がダサくて弱くて使えないってところでガリガリ頑張っていない現状に。人の上に立ってまとめることは左程苦手でも嫌いでもないけれど、ここで自分は何か成し遂げられるのだろうか?成長できるのだろうか?と疑問符が浮かぶ。

 

自分は組織名で語られたくない。自分という「固有名詞」で語られるべきなのだ。その組織で偉いポジションにいるからなんだというのだ。その小さいコミュニティで比較的ちょっと凄いだけで、偏差値でいえば60前後に過ぎないのだろう?それなら、もっと高いレベルで周りに刺激、プレッシャーを受けながら、それでもへこたれないで必死こいで食い下がる自分のほうが好きだし、もっとも輝いているし、生きている実感が湧く。本質的には、「承認」は自分のガソリンではないのであろう。

 

そうやって考えた中で、二つ目の点。

自分は、就活への認識を見誤っていた、いや、社会が見誤っている。

ということだ。

就活生が「募集要項」によって募集されるこのスタイル。あくまで買い手は、数億ともなる人的資源の買物をする「企業」であり、我々は、「プロダクト」に過ぎないのである。

昨今、製品には様々な機能が搭載される。我々商品にそれはあるのか?

繰り返し述べるようだが、自分という「商品」を売り込むうえで、欠かせないのは、

 

・正しいセグメントで勝負すること

・自分という商品を差別化すること

 

なのではないだろうか?

セグメントの面では、自分が「やりたいこと」でないと行く意味がないし、それが、「できること」でないとしんどい。だとしたら、多くの話を聞いたりするのは当然のことで、上辺だけ紹介されるような説明会だけでなく、1対1の密なコミュニケーションもそれ同等かそれ以上に重要なのであろう。

自分という商品を差別化するうえで、必要なのはパッケージングだ。

どれだけ中身が美味しいスナック菓子でも、パッケージが魅力的でないなら手を伸ばす価値はない。では、手を伸ばすパッケージ、目に留まるパッケージとはなんだろうか?

自分のクリエイティブ開発力が試される重要なセリングポイントになりそうだ。

あまりにも昨今は、「マイナスからスタートラインに立つ」ということばかり重視されていて、「スタートラインから自分らしさをアレンジさせる」というポイントが甘いように感じた。

 

中学、だいたいどこも校則は厳しい。マイルドヤンキーなら破ってなんぼ、でも自分は生徒会長であるがゆえ、守り律する立場だったのだ。では、どうするのか?

 

それは、「ルールの範囲内で、自分の表現をありふれさせる」ことなのではないだろうか?制限があるからこそ、人はそのなかで藻掻く瞬間を、姿を美しいと感じるのではないだろうか?最終回がないアニメはだらけてしまうし、年齢制限のないアダルトビデオなんてロマンスもクソもない。束縛されてなかで、どこまで尖れるか?それが重要なのではないだろうか。そのなかでのあくまでの、「超えてはいけないライン」としてのルールなのだ。そうやって、物事を守ろう守ろうとだけに注力してしまうのは、あまりにも没個性的で悲しくなってしまうな。

 

ちょっとだけ感じていた違和感というのは、皆がおんなじ顔、おんなじ姿で、没個性的に「歩兵」が生産されていくさまを見ていたからなのかもしれない。

 

人は、相手から好かれることに必死になると、自分のウィークポイントを隠そうと必死になって、自分の汚い所を隠す方を頑張る。

 

それなら、自分の綺麗なところをたくさん見せることに注力したほうがずっと良い。汚いことを隠すことを考えるのなら。

 

自分には磨いたら光るところ、綺麗なところがたくさんあって、どんな自分の面白い一面を売り込もうかな?という発想はどうなのだろうか?自分は人並み程度にしか自分に自信はないとは思っているが、それでも、過去の自分に、未来の自分に恥ずかしくないように毎日生きているつもりだ。

 

自分は最近の大学生に詳しくないけど、そんなにみんなは自分に自信が無いですか?

そんなに自分がみっともない人間だと思いますか?

ほんとうに自分の個性を埋没させることを是とするんですか?

みんな、承認されることが大好きな癖に、そういうところは遠慮するんだな、よくわかんないや。最近の若いもんは。。。21歳の爺には難しいな。