なんでこんな思考回路になったのか?
「個性」なんてものは厳密に言えば存在はしない。
結局はどこかで、過去の何かの模倣でしか無い。
自分は特別な存在だって心のなかで感じても、結果として、ある決まった何かの型にはまって生きている。
自分の価値観が大きく変わったと思う瞬間は二度あって、
一度目は14歳、二度目は16歳くらい。
中2で突如、腹部に激痛が走ったのは駅伝大会の次の日のことで、3回目からは嘔吐物は出なくて胃液が出るってことを学んだ体験があって、
まあ人生二度目の入院と手術だった訳なんだけど、この時明確に
「ヒトって死ぬんだな」
ってことを肌で体感したのと同時に、
「死ぬってラクじゃね?痛みって生きてる時だけじゃん」
って思ったわけ。全身麻酔のまますっと意識が遠のいて、二度と目が覚めなくなる。たったそれだけが死ぬということなんだ。
もう自分の存在も意識も、後ほどフィードバックも何も無く、突然死ぬというイベントで強制終了だ。それって本当に嫌なことだろうか?
正直、生きてる方がよっぽど心労だ。楽しいこと嬉しいことがあったとしても、人はいろんなストレスに、痛みに、耐えながらなんとなく生きてる。
そこまでして、生き続けなければいけない理由って何なんだろう?
あまりにも社会は死をネガティブに捉えすぎている。そう考えるようになった。
身体中に管が通されて、何とか生き繋いでる病床のあの人。
カゴの中に入れられて、痛みとやるせなさと戦う、戦った結果が、「寿命」という報酬なのだ。
自分の人生、生き続ける価値があるのだろうか?
だからこそ、ではないけれど、自分は自死へのネガティブなイメージは無い。
それはひとえに、これから生き続けるリスクと、死ぬためにかかるちょっとだけめちゃくちゃ痛い一瞬、あとは何もなしっていう死を天秤にかけた時、後者の方がいいと思えば、それはそれでより幸せだから。
それでも、21年間連続で「生きる」選択をしているのは、まだ生きてる方が面白いから。やなことも勿論あるけどね。
実際死ぬってラクだと思うよ。考えるってことは、ハイリスクハイリターンな消費活動なんだから。
16歳と言えば華の高校生。
正直言って、青春は綺麗な部分より、見えない醜い、触れたく無いような灰色の青春のほうがよっぽどえっちだし人としての深さのそれに関わってると思う。
自分は何者でも無いことを痛感した。
今、自分のことはスーパーマンだと思ってるけど、昔はもっと驕り高ぶっていた。
正直ほんとに自分は物語の主人公だと思ってたし、自分は本当に人間界で上位数%レベルの人間だと思っていた。
勿論それは大きな間違いで、自分は割と大したことない一般人側だと知ってしまうことになる。
きっかけは学業のこととか、人間関係、恋愛関係とか、諸所あるんだけど、どこでも共通することは、
「井の中の蛙」
これに尽きた。自分は小さいコミュニティで凄いだけのちょっと変梃子な奴なだけなのだ。
そう、自分は何者でもなかった。大衆の構成要素に過ぎなかった。自分は特別でも無いし、誰かにとっても特別でもないのだ。
それこそ、「生きてるけど、死んでる」って状況だろう。
出来ない側、劣等生として生きる耐性が付いていなかった、田舎のボンボンだった自分は、それに耐えることができなくて、たまに本当に高校に行くのが億劫になっていた。
風邪と称して高校は年に何度か休んでいた。
結構休むもんだから、欠席する連絡を高校の事務に連絡するという行為が印象に残っている。
蛇足になるけど、なんで高校いちいち休む時連絡入れなきゃいけなかったんだ?あの作業罪悪感と劣等感で30分くらい落ち込むから嫌だったんだよね。
現在の自分のスタンスを敢えて先に言うと、今はむしろ自分が劣等生だと感じる環境に自ら飛び込むことを意識している。
それはひとえに、自分がまだまだだと痛感しないといけないから。居心地の良いぬるま湯に浸かるとそこで自分が終わってしまうから。
その苦痛が、いつしか自分が成長するためのエッセンスなり得ることに気付いてむしろ楽しみになったし、より「反骨心」的な何かが醸成されたように思う。
自分よりすごい人を見つけたら、勿論凄いって思うし、それだけ嫉妬もする。
あの人にあって、自分にないもの。
その差に時に絶望するけれど、「やったるぞ」って頑張るようになった。
「才能ないから」って妥協するのはダサい。自分が自分に恥ずべき概念。
だから、自分なりに努力してみようと思った。
勿論自分は芯が弱いから、凹むことも今も沢山あるけど、やれることは出来る限り誠心誠意尽くす。無理だと思えば無理しない。その塩梅を大切にして生きるしかないんだ。
勉強も段々中の上くらいにはできるようになった。どうせ何においても1番にはなれないなら、自分の好きなことは自分自身が納得いくまで伸ばしてみよう。そう考えてみることにした。
他者と自分を比較することでしか自分を評価できなかったかつての自分は、対戦相手次第で一喜一憂してしまうとても儚い人間だった。
自分の理想の自分を設定して、それに向けて個としてゴールに向かって努力したほうがよっぽど楽しい。
今まで、沢山の他者と関わるなかで、やっぱり重要なのは、「個としての自律」でしかないなって思った。
やっぱり、自分が自分でいられない原因は、自分としての核が無いこと。キョロ充してしまう、個人としての掴み所、目に留まるところがないから、「大衆」になり、何者でも無くなってしまう。
自分が何者か?それを一番最初に定義してあげるのは間違い無く自分だ。だからこそ、自分の内面を自分でサイクル回して磨くしかない。
個として独立したうえで、他者と関わるから、組織は掛け算でものすごい成果が出せるのだ。一人で出来る人じゃない人たちの集まりに何の意味があろうか。
グループワークは大っ嫌いだけど、別にグループワークを否定するわけじゃない。大切なことは、個としての完成度が高い人間が集まってこそのグループである。私はその完成度が高いだろうか?
個としての完成度、それを言い換えれば、「自分が何者か」という定義ができることにあると思う。
ありきたりじゃつまらないのはそういう部分。
自分が誰かの記憶に強烈に残ってしまうようなヤバい人。それが何者か?という問いへの答えになるのだろう。
まあ、ここまで語っても、世の中の人間はみんな個性が無い。何かの模倣だし、プロトタイプに当てはまるし、何個もの人格をコピーペーストして繋ぎ合わせただけの "つぎはぎの概念" でしかないよ。
自分の考えは自分しかない特別なものだ!そう感じても、具体的なエピソードがそうなだけで、抽象概念はもうそれを言葉にして誰かが哲学として形に残している。
だから、読書は面白いよなって話でした。