怒らない方がよっぽど無粋
怒らない、ということは本質的に対象に対して期待も思い入れもないのかもしれない。
よく、体育会系で
「お前に期待してるから怒ってるんだからな」
っていうストレス発散の大義名分を片棒に自己主張を掲げる人間に嫌悪感を抱いていた。
そんなん自分のエゴやん、怒りたい正当な理由を作りたいだけ、自分が「教えてる風」をしたいだけ。
そう思っていたし、今としてその感情に変化はない。
ただ、人が謝ってきた時に、
「いやいや、そんな謝ることでもないですよ」
って思うのは、もしかしたら相手にさして興味も期待も無いからなんじゃないかな?って。
やさしいだけの人間は本質的には悪人だし、ずっとニコニコしている人間の腹の底は理解できないくらい真っ黒になってる可能性もある。
たしかに、ちょっと人にムカつく時ってそれなりに労力を使うから、できるならそんなことにエネルギーを使わない方がいい。そうやって、人間関係をセルフデトックスする発想は割と重要なのはわかる。
でも逆に、自分がムカつくってことは、
「その人は本来これくらいのレベルでいて欲しいのに、そうでないからその差に不協和を感じているのではないか」
って仮説を提唱するのだ。
自分がそう思考するだけの労力を費やす相手は、それ相応に自分が肩入れしている他ならないのだ。
そう考えると、自分はあまりにも他者への感情の浮き沈みがない。
よく言えば、他者評価を適切に行えている、悪く言えば、人に必要以上に期待していないのだろうか。
自分について定義しなおせば、確実に単純な人嫌いというわけではない。多分根底の部分ではコミュニケーションは好きだ。
恐らく、前提の部分から間違っていて、自分は自己として存在が確立してからの他者なのだと思う。本質的に他者を信頼しないのは、感情的な側面ではなくシステム面での根拠が原因だ。
まずは自己として個々の確立されたなにかが先だからこそ、何となく群れるっていうのは性に合わないのだ。