カプチーノ現象

内向的自己回帰型排斥主義OL

実力主義、その先を考えないのは心底低知能極まりないはずだ

そもそも "努力すれば必ず報われる" と言う人はあまり好きじゃないし、

オブラートに包むとそういう無責任な発言する人間は大っ嫌いだと思っている。

 

そもそも努力とは?曖昧に定義づけされたそれは、主観的に見れば自己満足で、自分が努力をしたと思ってもまわりがそれを努力とみなさないのであれば、それは努力ではないはずだ。奴は限りなく観測学的な概念だと思う。

 

成功した人間は、それは努力を要因に事象を語るのは正当な権利で非常に論理的だと思う。

でもそれは、成功したという結果がそれを許しているのであって、成功できなかったらそれは努力とは呼ばないのだ。それが実力主義というものだと考えている。

 

「努力は必ず報われる」というよりも、「報われた要因になるものは必ず努力」だろうか。そういった感覚だ。

じゃあどういうことか?

努力は「正しい方向に正しい分以上努力すれば報われる」と誰かが言ったのを聞いて、非常に合点がいった。その注釈が無い限り、あまりにも惨すぎる。

 

さて、昨今感じることではあるのだが、

「知識を手に入れられても、それをうまくつかいこなせないなら意味が無い」

し、

「うまくつかいこなせても、それで優秀な結果が出ないなら意味が無い」

と、仕事、資本主義経済で生きるうえではこれが本質なのではないだろうか?と感じるのだ。

 

自分は何のために勉強しているのか?と問われれば、

「今まで知らなかったものを知るのが純粋に快感だから」

と答える。勿論学問にすき好みはあるのだが。

 

だがしかし、それを仕事に置き換える。というと言い過ぎかもしれないが、

それで、何かに困っている人のヒントになること、幸せになること、ひいては、それに経済価値を見出して自分を雇う形、金銭を与える形で評価されることに意味の力点を置いたとき、

「知識を得る」ということ自体が、大したことでもなんでもなく、それこそ代替可能なものなのだと思う。

暗記力がある、学力が高い、ものわかりがいい。要領がいい。そんな各要素も、もしかしたら埋もれてしまうもので、もしかしたら既にGoogle検索のほうがよっぽど有能なのかもしれない。

 

じゃあ、我々が知識を欲するために、大学まで通いお金を浪費する理由はどこにあるのだろうか?

自分の感性でそれは、「大学を通ったお金を投資として、莫大なリターンのもとで人生の資産運用をより好調に進めるため」と言おう。なんとしてもこれは言わなければならない。自分への誓い、戒めのためにも。

 

なら、その知識を、経済的利益にするうえで必要な変換作業は

 

知識を道具とし、道具で結果を出すことだろう。

 

どんなに高級な牛肉を手に入れても、それを最大限に美味く料理する方法がないと牛肉があっても生肉は不味いから意味ないし、

その高級料理が出来たとしても、それが売れて金になったり、誰かに食べられ血肉とならないと、どんどん腐って食べられなくなって、やがて炭化する。

 

その実力が無い、伴わないってのは実際凄いしんどいし、劣等感半端じゃないはずだし、だからこそ人は日々努力を怠らないはずなんだけど、

だからこそ、正しい努力をして成功したいはずで間違いないのだ。

実力主義というものは残酷だ。残酷だからこそ、人は必死こいで頑張れるのかもしれない。頑張れないならそれは本気じゃないんだなって落ち着く。

 

我々は戦うための道具を錬成するために頑張らないといけないし、それでそれ相応の結果を残し、経済的価値を得ないと、せっかく知識を得てもそれが趣味レベルで終わってしまうのかもしれない。

だから、ただの知識会得で自分が凄いと錯覚するのも、だからといって、それを使いこなせて満足するのも、やっぱり意味はない。

 

どうせマウンティングするなら、それに見合う実績、データ、ランキングを得ないといけない。

 

逆に言えば、こういって何かと文句をつける輩が嫌いだから、絶対に結果を出さないといけない。結果を出して黙らす必要がある。

または、ここにきて突然ユーモアではあるが、

少し前に生ハム原木のツイートが話題を呼んだが、

https://news.livedoor.com/article/detail/16776283/

 

ちょっと嫌なことがあっても「まあ家に帰れば生ハム原木あるしな」ってなるし仕事でむかつく人に会っても「そんな口きいていいのか?私は自宅で生ハム原木とよろしくやってる身だぞ」ってなれる。

 

 

このフレーズがとっても大好きで、何かひとつマウンティングできることがあると、それを支えにどんな小さいイラっとする人間も面白いくらい滑稽に見えてしまうのかもしれない。

 

それを冷酷とか、人間の感情じゃないとか、死ねとかいろいろ俺の中でも批評はあるんだけど、でもそれですら大したねえ大衆愚民どものつまらんコメントって考えられてしまうって思うと、やはり人間の感情って恐ろしくもあるし、優劣差がこうも人生の豊かさを変容させていると思うと、社会性の歴史を辿っていくのは非常に面白いことだと思ってるよ。

 

格差社会を無くそうと日々奮闘している人がいるのも事実だけど、現実で格差社会がなくならないなら、ヒエラルキーでは気持ちだけでも上にいた方が確実に幸せだ。

 

だからこれの裏テーマは、

「劣等感を持つな、卑屈になるな」

なのかもしれない。