カプチーノ現象

内向的自己回帰型排斥主義OL

意図的に

意図的に動けたなら最強だと思うし、意図して人を動かせたらそれは才能だと思う。

 

何かをやるにつけても、なぜこれをやらなくてはいけないのか?を考えれば、無駄を省くことだって、合理的かつ効率的に物事をこなすことは容易い。

 

されど、それができたら苦労はしない。今や様々なしがらみがあってこその社会で、それを言い訳にして現状を維持することのほうが簡単なのかもしれない。

 

でも、自分の脳みそを使って考えて、ほんとうに必要だと思うことを意識的にやることは非常に合理的な解釈になるはずだ。

 

さて、世の中には残念ながら優劣というものが存在するのだが、それを良しとしたとしても、中途半端に優である者が異様に態度が大きいこの風潮は何なのだろうか?

 

正直井の中の蛙なのかもしれないし、自分が勝てないフィールドに立たないというある種の賢い選択ではあるのかもしれない。

 

でもそこでも、意図を失くしてしまったらそれでお終いだ。そういうポジションにいることでその場に慣れ、慢心し、結果として大したことのない人間になってしまう。

 

自分はこの場が居心地がよくなったと思ったら意図的に新しい環境を模索する。尊敬する経営者の人生観に倣ったものだが、その根源にあるのは "執着心" なのである。

 

それは時として1つの強みになるのかもしれないが、そこで成長が終了して、そこまでの人間でしかなくなってしまえばその程度だ。

 

自分はある組織体のなかでは有能だと思って見ても、ひとたび組織環境を変えてしまえば無能になる。人間はどのポジションにおいても有能であることは不可能なのだ。

 

でも、有能について再議する。俺は果たして有能なのか?その小さいコミュニティで上を張って満足なのか?舞台は最大限まで広げれば世界だ。そのなかで、ちっぽけな日本という一国のなかの、中途半端なレベルの環境で任意でトップに立てて、それは本当に有能足り得るのだろうか?

 

それなら、もうここで自分の成長が無いと思えば、次なるステージに進むのが妥当で、どんどん自分のレベルを高めたほうがいいに決まっている。

 

そこに執着してしまうことを完全悪とまでは言わないが、惜しい気持ちも残し、名残を感じながらも、自分がよりなりたい、そう考える場所に進むのが間違いなく正解だ。

 

今の環境に満足している人には、関係のない話かもしれない。

 

ただ、自分は、有能だと言われて生きるのも、なんだか生きにくくて違和感があるし、だからといって新しい環境に飛び込んで自分の無能さを痛感してイヤになって頑張るけどどうしても届かないものにいたく恋しさすら覚える。

 

その二律背反な価値観に、時々、誇らしいこともあるし、嫌になっちゃうこともあるだけ。それだけ。