カプチーノ現象

内向的自己回帰型排斥主義OL

"頑張ってますアピール" のこの上ない不快感

結果が求められる世界で生きているなら、過程は他者から評価されるべきものであり、自らが自らの過程について参与すべきではない。

 

個人的な嗜好でもあるが、やはり好きなのは、良くできて、多くを語らない人間だ。

 

しかし、どうも世の中には、大したこともないのだが、多くを語ってしまう人間というのも確かに存在してしまう。

 

自分はいつも前者で在りたいと思い生きるが、自分は語るのは大好きだし、何かをするにつけて、自分の不甲斐なさ、無能さに打ちひしがれるときのほうが、そうでない時に比べて多いのは間違いない。

 

よく、ありもしないでべらべらと話してしまったあとに、あの言葉は不適切だとか、言葉足らずだったとか、くよくよと後になって1人反省会をしてしまうような性分だ。もしかしたら、語ること自体にもあまり向いていないのかもしれない。

 

だからこそ、特に、常に気を遣っていることはいくつかある。

 

まず、自分の "過程" を語っていないか。

過程なんて他者があとで勝手に評価するものであるべきだから、自分が成したことで、自分で語り出す、人に頼まれてもいないのに話し始めるような浅はかなことはしたくないと思っている。

人間は思ったよりも他人に興味がない。そんな他人に自分の過程をさらけ出し何になるのか?

それなら、自分のなかで消化して推敲させて新たな発見をする方が面白い。

 

次に、本当に愛してもらえる人にしかそれに価値する分しか話さないこと。

情け無い話かもしれないが、自分は他人の痛みに人一倍気を遣ってしまう性分の裏腹に、だからこそなのかもしれないが、人間の面倒臭い部分には一切関わりたくないとすら思ってしまうほど人間関係に疎い。

しかしながら、それでも、それなりに自分を正しく理解してくれた人、正しく好きになってくれた人には、それに対して、それ相応の愛なり何なりで応えたいとそう思うことはある。

逆に言えば、大して好きでもない人間に話すことは煩雑だ。それは時間の無駄なのかもしれないし、個人情報を公開しているだけなのかもしれない。

時に、人間には数多い知人よりも、たった一握りでも自分の理解者がいてくれる方が良いと言う。それはまさしくそうで、自分を正しく理解してくれた理解者には、それなりの誠意を見せるのが道理であろう。

 

さて、人はなぜ、相手はどうせ聞きたくも見たくもねえことを話したくなるのか?それは自分のことが大好きだからだ。間違いない。でも、その自己表現を、クソつまらねえ形で表現するのか、万人に受けるように満遍なく伸ばしたデザインで評価されるのか、自分を本当に理解してもらえるようにデザインされた形で表現するのか。それは、ある意味では発信者の自由な選択権に帰するのである。

 

自分のことを好きになってほしいタイプの人間に好きになってもらえるようなキャラクターデザイン、ブランディング活動ができる能力というものは、今後人間関係を充実させる上でバチバチに重要になるはずだ。

 

それができれば、自然と周りには自分を理解してくれるコミュニティが形成されるし、それの理解があれば、自分が接していて不快感のある人間への関心も自然に薄れていく。

 

その "頑張ってますアピール" についても、自分が好きだと思う人なら心から応援できることだし、自分が好きでないと思う人なら、ただウザい表現でミュート対象にノミネートされるクソ人間でしかない。なら、最大の目的は、「好きになってくれる人をたくさんにする」もっと丁寧に言えば「自分を好きになってくれる人で満たし、そうでない人は自然に離す」ことだろう。

 

自分が孤独を愛するのは、単にその作業を煩雑に感じているからという点もあるが、厳密にはもっと違う。

 

自分は人をドライに評価するようで、良い部分は良い。ただ、悪い部分もあるよね。くらいの感覚でざっくり人を見る傾向にあるから、好きとか嫌いとか無関心とかその境界の定義が曖昧である。この人は好きだから全部何もかもが好き。そういう考えは持ち合わせない。

 

好きだけど、この部分は悪いところだよねとか、嫌いだけど、こういう側面は認めないとねとかは、それなりに考えて人を見ている。

 

だからこそ、生きにくさがあるのかもしれない。

 

自分を正しく理解して愛してくれる人というのはそう多くはないのかもしれないが、そういったこと、自分がどう見られているか、自分は相手をどう見ているかなどについてを、あまりにも敏感に察知できてしまうのが、非常に自分自身を面倒くさくさせている一端なのかもしれない。

 

自分はそこまで愛を振り撒かないと主観的には評価している割に、周りからの供給過多な評価に嫌になることがある。自分は何も与えていないのにこの人たちは何故私に執着するのだろうか?と。

 

それは人間不信的な側面もあるのだが、自分を正しく理解していないのに、そこまで自分に肩入れする道義はないのだ。

 

もちろん、自分の自己開示が甘いというところもたしかに存在するのだが、

 

自分は、自分のことを知りたいと思ってくれた人には、それなりの誠意は、尽くしたいと思っている。

 

それも、普通にストレートに、

「今度飲み行きましょうよ。いろいろお話ししたくって。いつお時間ありますか?」

 

これくらい言ってくれると、本当に自分をスムーズに開示しやすい。むしろこの聞き方をしてくれる人こそ、自分のこと分かってくれてるんじゃないかな?とつくづく感じるの。