カプチーノ現象

内向的自己回帰型排斥主義OL

社会に向いていないという観点

自分は社会生活に向いていないと思う。

 

基本的に外に出たくないし、屁理屈だし、太陽が出ている間に動くのは億劫だし、対人難だし、車の運転が物理的に不可能なことが分かっているし、合理主義者であるが故に自己の非合理性が許せない時があるし、人に合わせるのが得意でないし、気を遣いすぎて気疲れしてしまうし、夜寝る前に対人反省会を頻繁に行う性分だし、人混みに入ると気分が悪くなるし、自分を正当化しがちだし、頑固ゆえに意固地だし、ストレス耐性に甘えてなにかと抱え込んで勝手に消化する。

 

だが、同時に別に、そんな自分を嫌だとも思ってはいない。

 

自分のこと好き?嫌い?と言われたら、まあ即答で好きと言う。嫌いだったら無駄に21年も生きてられない。

 

自分は、自らの個性をそれなりに好きだと思っているし、割と気に入っている方だと思っている。まあ、自分のことを嫌いだな〜と思ったら、そこの性格はすぐに改善しようと試みるから、割と直ぐに自分に対しての修正能力はあるのかもしれない。

 

そういった過程を踏んだ上で、社会に向いてないと自覚しているのなら、もしかしたら自分と社会はそもそも相性が良くないのかもしれない。

 

じゃあ、だからといって、自分の好きを少しずつ削っていって社会に合わせなければならないのか?

 

最近全体主義にハマっててちょっと勉強し始めたところなんだけど、

 

我々は基本的に個人は個人として尊重されるべきと憲法ならび通説で言われているわりに、今の社会は結構全体主義的側面が垣間見えてるのではないか?

 

別に全体主義を悪と全否定するつもりはない。

 

組織が進んでいく上で、個人主義的思想は基本的には厄介ごとだと思う。

 

組織体として為していく際には、確実に個人は軍隊化、横並び的に進んだ方が都合が良いのは間違いない。

その生き方を否定しようとも思わない。没個性だとか、平均的だとか、つまらねえ人間だとか、いろいろ批評する輩がいても、当の本人の幸福度が高いのならば、没個性でも構わないのではないか?

 

ただ、望んで個性的に生きてしまったがゆえに、幸福度が下がってしまう現象があるのならば、それはどうも哀しすぎる。

 

個性を求めたがゆえに、他者から非難され、嫌煙され、それで心が壊れてしまって、いつしか個性的に生きるのを辞めてしまった人。そんな人がもしいたとしたのならば。

 

没個性の組織体、全体主義的な人間の中にも2種類あると思う。

望んでそうなっている者と、望まずしてそうなってしまった者。

 

後者を悲劇のヒロインと呼ぶのならば、彼女らを救うような世界があってもバチは当たらないと願いたい。

 

かくして、我々は個性を追求することを良しとされる一方で、個性を追求すると生きにくくなるジレンマがたしかに存在している。

 

もし初めから、個性を追求しなくても良いと考えて仕舞えば、それが一番幸せなのかもしれない。

 

 

自由とは、かえって不自由なものだと常日頃いたく感じてしまっている。それは悲しい。