カプチーノ現象

内向的自己回帰型排斥主義OL

ゆとりだから順位づけに抵抗がある

比較は社会の常であり、自分はいったいどのポジションにあるか、というランク付けは世の中で当たり前に行われているし、モチベーション管理の原則だし、あって然るべきである。その理論は全うで、何の異論もない。

 

ただ、勝者がいるのは敗者が存在するから成り立っているし、1位があるのは最下位がいてこそ成立するのは確かである。

 

別に、自分が1位だったら嬉しいし、それを目指して努力する。逆に自分が敗者であれば、悔しいし、負けたくないから努力する。それについて文句はないし、結果は結果で、それを受け止めるだけの器くらいは持っていて、それが日々の活動のモチベーションとなっている。

 

ただ、それを受け止めるだけなら。それは簡単な話である。

 

自分が、何かの評価をしなくてはいけない時、評価する立場にある時、順位づけをしたら自ずと劣等生が生まれる。その人の気持ちを考え過ぎてしまうと、正しい判断が下せなくなる。そう思って、考え過ぎてしまうから、昔から順位づけとかそういう言葉は苦手だ。

 

自分に対してならマシだけど、自分が何かを順位づけするのが嫌なのだ。この感覚わかる人いないか?いないか。

 

それが、自分が管理職ないし、上に立つ器がないと自己評価している最大の理由である。人を適切に評価できないし、無駄に人のバックグラウンドを考え過ぎてしまうからこそ、私情などが挟まって、ある種冷徹な判断が下せない。

 

そういうところに気を遣いすぎてしまう点においては、管理職のサポート役をするのが自分の中では向いていると自覚しているし、そうしてきた組織では自他ともに居心地の良い組織が出来上がっていたと思う。

 

それで、一番人生で理解のできない人種、いや、こういうと語弊がありすぎるけど、自分はそうはなりたくてもなれないなって言動が

 

「やっぱりこのメンツが一番!」

とか、

「いまいる○○より**のほうが良かった」

みたいな言動。

 

前述のとおり、考え過ぎると、

その投稿をみた周りの人が、

「あっ、この人の一番はあのコミュニティで、そのコミュニティに属していない私はこの人にとってサブウェポンでしかなくって、大してエネルギー割かれてないんだな」

とか

「私はあなたのこと一番の友達だと思っていたのに、あなたは他に一番がいたんだ」

とか

「今私はあなたと同じコミュニティに属しているんだけど、あなたが昔いたコミュニティのほうが良かったって言うのなら、きっとあなたは今のコミュニティに不満で、楽しいような顔をしていても楽しくないのね。」

 

みたいな、深入りするとそれくらいまで考えてしまう人だって世の中にはいるんじゃないか?って感じてる。そんなことで人間関係にトラブルが起きてしまうのだとしたら居た堪れないし、面倒極まりない。

 

自分は、そういったことを誰よりも敏感に面倒くさいと感じてしまう性分だから、意識的に、「〜〜が一番!」とか「〜〜のほうが」という言葉を発さないようにしている。特にそのコミュニティに自分が関わっていれば。

現に、そういったトラブルを避ける避けない以前の問題で、自分が特にこれ!というものに執着したくない、というアイデンティティのもとに形成されているから、という理由のほうが大きいのだが。

 

例えば俺が仮に今、知り合いを無作為に抽出したコミュニティのチャットルームで

「大学よりも高校のほうが楽しかった」

と言ったとする。これを見ている人が、自分とどんな関わりがあるのかは見当もつかないが、どう受け取るか?

 

大学の人なら、少なからずネガティブな印象を持つだろうし、高校の人なら俺の現状を気にかけてポジティブな印象は持たないだろう。

逆に

「大学の方が高校より楽しい!」

と言っても、そこまでポジティブな印象は得られないのではないか?だとして、これを思っても言う価値はどこにあるのか?人と関わるのは面倒だと感じる自分でも、人にネガティブな印象は持たれないように努めてはいる。というか、人間なら当然な感情だ。だから、そういった比較文は使いたくない、という合理的解釈に基づく判断なのである。

 

意図的に執着しないようにしている、というと大袈裟かもしれないが、あまり居心地が良すぎないほうが身のためなのかもしれない。その場限りで楽しくても、どこかで何かネガティブな感情が生まれるのなら、軽い感覚で今の自分の気持ちを表現するのはいささか不誠実だ。と、思ってはいる。

 

それが、人間に対してドライだ、ということをつっこまれたら、非常に納得がいくので、これから面接でチャームポイントはドライなところです!と声を大にして言おうと思う。