カプチーノ現象

内向的自己回帰型排斥主義OL

整頓する

部屋掃除はあまり得意な方ではない。

ガサツな性格であることもあるが、何よりも断捨離ができない。

必要なもの、そうでないものの区別をつけられる人をある意味で尊敬している。

 

ひと昔に、片づけ及び断捨離術が流行った時、

「半年使わなかったものは捨てましょう」

みたいな標語があって、なるほどと思って試してみたところ、いや、1年に1回使う備品もあるだろう、と思ってその期間を勝手に1年に延ばし、2年となり、4年となり、結局捨てられないままでいるものが家の中に沢山ある。

 

実家と下宿先、自分には2つの拠点があり、上京してからの3年間、自分は自分のモノの移動を細かに行い、実家の自分の部屋には、もう、高校の時使った参考書くらいしか残っていない。

実家に帰るたび、勿論自分の部屋で寝泊まりをするわけだが、その部屋だけ、2017年のまま止まったままで、まるで令和に変わった時代の中で取り残されたままのようである。

だが、それはさみしいことではなくって、その実家の自分の部屋に帰るたび、受験期の葛藤であったり、ささやかな努力であったり、形成された人生観であったりを改めて思い起こし、背筋が伸びるものだ。

 

要らないものを捨てること、そして、新しいものを取り入れること、そういった変化の過程には、きっと何かしらの意味を持ち合わせている。だからこそ、そういった変化の過程を、大切にしなくてはいけないんだと思う。

 

それを見やすい形に、分かり易い形に、思い起こしやすい感情で残しておくことが、整頓、ということばで定義できるのであれば、整頓という作業は日々邁進しなくてはいけない大切な活動の一つなのである。

 

ただ、その整頓という作業で最も重要となるものは、

「捨てていいものと、残さなくてはならないものの分別」

ではないだろうか?

 

自分の中で捨ててはいけないものは何なのか、捨ててもいいものは何なのか。

 

そういった諸概念の分別、棲み分けはどういった価値基準のもと選択するのか?

 

広く世界を捉えようとすると、何もかも手を伸ばしてしまうのに、何も手放せない。それでも、人間の手は2つしかないから、容量はいつしか一杯になっていく。

 

手を伸ばすことは確かに大切なんだけど、それを手放す勇気であったり、価値判断であったりがないと、広く浅くなんて自称する資格はきっと無いはずだ。