カプチーノ現象

内向的自己回帰型排斥主義OL

"タカラモノ" という概念

 "人類の歴史は、闘争にある" 

 

闘争の先にあるのは憎悪で、その根本にあるのは、自己とそれ以外を受け入れきれないヒトそのものの器の小ささ故にある。

 

争いが起きる限り、憎悪を拭い去ることは不可能であり、同時に争いがあるということは、それだけヒトは非寛容的だ、ということなのだと思う。

 

地球の長い歴史を見ても、単純な生存機会の獲得の理由以外に、闘争を行うのは人類以外に居ない、という話は皮肉的な面白さがある。

 

ではなぜ、ヒトは闘争を行い、繰り返してしまうのか?

 

知能があり、文化があり、感情があるから。が直接的な理由だとは思う。

 

PS4用ゲーム『NieR Automata』は、ヨコオタロウ氏の鬼作のうちの一つであり、発売から数年が経っても多くの人間に愛されるアクションRPGとなっている。

 

ゲームの爽快なアクション要素や緻密で広がりのある世界観も勿論だが、機械が闘う理由を問う。というテーマが痛快で面白い。

 

遠い未来、人間が住む地球はエイリアンが操作する機械生命体によって征服され、人類は月に逃れた。そうして、人類が作り出した、アンドロイドが奪還の為に地球に降り立つ。

 

つまり、「機械生命体」と「アンドロイド」による代理戦争の構図が出来上がり、操作する主人公がアンドロイドであること、対峙していく機械生命体には本来 "感情が無いはずなのに" まるで感情があるかのように戦い、行動する。

 

彼らは何故戦っているのか?そうプログラムされているから?

 

主人公はアンドロイド側の陣営だが、彼らは「感情を持つこと」が禁止されている。それは何故なのか?

 

対峙する機械生命体は、なぜか人間のように感情を吐露し、戦い散った同胞への仇に燃える者、復讐心に苛まれた者、さまざまな機械生命体が各地で観測された。

 

なぜ、闘わねばならなかったのか?

 

その一つの答えとして物語の中で挙げられた概念は "タカラモノ" というものだった。

 

ある者にとってのタカラモノは家族だった。

ある者にとってのタカラモノは仲間だった。

ある者にとってのタカラモノは "憎悪" だった。

 

そのタカラモノを失った時に、果たして我々は正常な思考を保ったまま、正しい判断が下せるのだろうか?

 

それは分からない。

「やってみないとわかんないよ」って言葉は本当にそうであるように。

 

憎悪は、そのものが人間のモチベーションになる、というのは非常に深刻な話で、憎悪と犯罪心理、特に被害者遺族の心理に興味がある人は、併せて、映画「22年目の告白 -私が殺人犯です- 」を観て欲しいと思っている。