カプチーノ現象

内向的自己回帰型排斥主義OL

宝物箱に蓋はあった?

小さい頃、今となっては取り留めのないものかもしれないが、宝物だと言って、宝物箱なるものを作ってそこに大切に保管していた。保管している割には、毎日それを開けては眺めるし、それはそれは大事にしていたし、壊れたり無くした時はそれはショックだった。物であっても、愛でる気持ちというのはこういったところで少しずつ形成されていくのだろうと思う。

 

これは恐らく多くの人の幼少期に当てはまる記憶だと私は推察するのだが、そんな宝物箱に、蓋はあっただろうか?鍵はついていただろうか?人目につくところに閉まっていたか?ということに記憶を辿ってみてほしい。

 

結論、本当に大切なものは、決して我々は他人に見せなかった。見せびらかそうと、という表現が適切だろうか。それで、我々は何かを愛し、慈しんで成長を続けてきたはずだ。

 

 

自分の話になるが、私の中で数多いポリシーの1つに、

「本当に大切なもの、大切な人の情報は公開しないように努める」

ということだ。例えば推しだとか、オタクだとか、多くの人に知ってもらいたいという点で、情報公開を行うことはほとんどだが、例えば自分が誰かと交際していたとして、その行動録を逐一報告しなければいけない義務は無いし、いや、その前に需要に対して供給がほぼゼロであるに違いない。

 

そもそも、交際を公開し晒す行為というのは、公共性の高い人物がしているのが道義であって、大して公共性が高くない人物が交際について事細かく表現するのは、適切ではないと自分の中で感じている。これは少し論点からずれているが。たしかに、芸能人や有名人のミラーリングというのは現状多くの大衆が実際に行為として行っていて、それが文化形成、ひいては経済活動で裏として利用することは世の常ではあるが。

 

自分が公共性が高いのか、低いのか、というのは自分が一番よくわかっているだろう。自己評価というのは、大抵大きく外れて間違っていることというのはないし、そうだったとしても、途中で誰かに指摘される。セレブリティは、何か他のヒト、モノ、カネ、会社に多かれ少なかれ影響を与え得る人物だからこそ、その裾野が大きいからこそ、彼らはプライベートの隅々までマスコミを伴って情報公開を要求される。SNSが栄え、自分からの発信が容易となってからは、ある種の防衛線としての機能を用いている感覚がある。それはマスコミであったり、スキャンダルから身を守るために、自分から先にリークを行うという先出し行為だ。先に出せば脚色が加えられない利点があるからだ。だから、彼らは有名になり、地位や名誉を得た一方で、公共性という凶器で首元を当てられながら、プライベートというものを犠牲にいきている。それは尊敬に値することで、我々庶民には到底できない。

 

それが公共性というものだ。ある意味では彼の義務であるのかもしれない。それに対して、我々庶民は、公共性があまり高くないから、自分の大切なものについて守られる権利があるし、それを大切にしまっておける権利がある。それを喜ばしいと思うか、別に必要ないよというかは当人次第なのである。

 

自分の中で感じているのは、それを守ること自体が美しいことだと感じている。

 

勿論、自分の中では、それをひけらかすような人間がいたとして、それ自体を否定するつもりは毛頭無いが、いったいどんな感情を持ってそれを公開しているのか、その思考が自分には分からないから、もしこれを見ていて、その答えが明確にある人がいたら、こっそりと教えて欲しい。

 

ここからは持論で話していく。自分が前述したポリシーを持っているのは、大切なものを公開しないようにしているのは、それが相手に対しての自分なりの誠意だから、である。

 

例えば、逆に自分が相手とどこかに行ったとして、その行動録を逐一SNSで投稿されたとして、それについて自分はきっとこう考える。

 

「ああ、自分はSNS投稿のネタでしかなくて、自分の表面的な行動でしか見られない。自分の内面的なものとか、パーソナリティだとか、そういった他人には言わないような深い部分まではきっと踏み込んでこれないし、もし踏み込まれたとしても多分色んな人に間違った情報伝達をしてしまって、自分の価値観を間違った捉え方でされてしまうのだろうな。」

 

まあここまで脳内が高速回転するわけでは無いが、そう感じてしまう。卑屈だからこそ、である。

 

だからこそ、その人について何も語らないのは、自分の中で誠意であるし、それは敬愛である。

例えば、世の中のツイッターであり、インスタのストーリーであり、軽めの投稿が多いSNSではそういった類いのものが蔓延しているようだ。例えば顔面を映してみたり、メンションを飛ばしたり、、、

一番最悪なのは顔も映さず、メンションもせず、首から下の胴体しか映されていない系の媒体だと思う。

「結局私はカラダ目的だったんでしょ?」

まさに、字の通りの「体」目的なのである。痛快な風刺だ。自分からすると、それについては相手そのものに大抵興味はなく、自分が誰かと一緒にいる社会的に地位として優れた人間だ、というマウンティングの道具としか扱われていない。そう感じ取る人もいる、というくらいの感覚で聞いて欲しいが、やられた当人からすれば不快極まりないのでは?と、個人的には感じている。

 

投稿をしないのは誠実さだ、もっと言えば、2人で話すときに、当たり前のマナーとして他の作業をしない、というのも誠実さだ。逆に自分がそれをしていない時は、本当に誠実に向き合っている時だから、それをされたら自信を持っていい。されてなくても、自分は95%くらいそういうことするから、そこまで気にすることでも無い。自分は他人に興味がなく過干渉されたく無い一方で、だからこそ、他人には誠実でいたいものなのである。