カプチーノ現象

内向的自己回帰型排斥主義OL

本屋さんがすき

この言葉の場合、その場所空間的なものを指しているのか、そこに所属する人間を指しているのか、ふた通りの解釈が考えられるのが一般論だけど、ここにおいては前者である。

 

趣味が読書、というほど読書をしているのか?と言われると、読書家に失礼だが、僭越ながら、平均よりは本を読むほうだと思う。物語は然程興味があるわけではないけどコミックでも小説でもたまに読むが、基本的にはビジネス書や、心理学、哲学、古文学や日本史学を読むことがよくある。

 

活字を追う作業は時には億劫だけれども、自分の知らない知識を知る機会になるし、その文章の書き方そのものを批評する練習にもなるし、筆者や登場人物の感情を追い耽ることは美しいから、いつまでも辞めないで居たいとそう思う。

 

さて、本屋さん、書店、サラのものでも、古本でも構わないけど、やっぱりあそこの雰囲気であったり、匂いであったり、沈黙が張り詰めているけどそれが心地よい空間は好きで、手持ち無沙汰になって歩いている時にそれを見つけたら、気づけば足はそちらに向かっている。特に何も買わないで去ることもあるし、思いがけず沢山買ってしまって読みもしないのに後悔することも時折ある。でも、この無駄な出費は、自分の中で大切な無駄な経費だと感じていて、今もやめられないでいる。

 

昔、本棚は自分の名刺がわりに、みたいな文言の記事を書いたような気がするけれど、本当にそうで、読んでいった本は自分の価値観の世界線であり、自分の歴史であり、自分を語るには間違いない場所だと思う。自分がめいいっぱい稼いで、結婚して一戸建てを建てるときは絶対に自分専用の書斎を作る。そこに大きな大きな本棚を買って、自分が読んだ本、なかでも影響を受けたり、ためになったり、表紙のデザインに惹かれて買ってしまったり、あのページのあのフレーズが忘れられない、そんな本たちを並べて、いつでも見られるようにしたいし、家族であったりの、自分が心を許して愛している人に、それをいつでも見せることができて、お互いにあの本がいいとか、この本がすごいとか、話し合える空間を作ってみたいと感じている。

 

たぶんだけど、自分は死ぬまで勉強すること、学問をすること、本を読むことは辞めないと思うし、ずっとそうやって何かを満たしていく予定だから、書斎は絶対に欲しい。自分の好きなものだけ集めた最強の本屋さん、みたいな。

 

例えば、本屋さんのどんなところが好きかっていうと、静かなところが好きだし、たくさんの文字が、表紙のデザインアートが、帯のレビューが誘惑となって襲いかかってくるところも好きだし、あの紙とインクの混じった乾いた匂いも好きだし、だいたい隣にカフェが併設されてて、コーヒーがローストされている香りを感じるのも好き。あの一帯にまみれた世界観というか、雰囲気というかは、何か1つが欠けてもいけない気がするけど、それ全体が一つになって五感に訴えてくる衝撃を与えてくる。

 

本屋と自分、の歴史を紐解いて思い出すのは、絶対にこの2つってやつを共有したい。

 

 

小さい頃、地元、といっても市内の端から端で、親の車に乗って10分くらいしたところに、TSUTAYAがあって、そこにはドトールが併設されていた。そこから程ない距離に大型スーパーがあったから、親が買い物している時に、自分は少し離れたそこに降ろしてもらって、2〜30分TSUTAYAに篭っていた。そこにはゲーム販売もあるから、ゲームを見たりもしたが、ウチではゲームを買うときは親の承諾が必要(今は一人暮らしで実質ないに等しいが、今も欲しいゲームを買うときはちょっぴり罪悪感がある)だったし、それも3ヶ月に一回と決められていたからそうそう購入を決めることは出来なかった。だから、というわけではないけど、コミックコーナーに行ったり、中学校の朝の時限に設けられた読書の15分間のために読む短編を探したり、それで時間が余ったらドトールでコーヒー飲みながら読んだりしていた。

 

 

 

 

高校は市外の普通科に進学したから、電車で6駅くらい、30分くらいかけて通学していた。それ自体は、学校の予習復習睡眠に追われて暇なことはなかったのだけれど、田舎の鈍行は東京だとか、都心部ほど頻繁に来るわけじゃない。通勤ラッシュ時でも30分ごとだし、基本は1時間ごとだった。親の就業時間の関係もあって、余計に駅で待つことがまあまああった。

高校最寄りの駅に駅ビルがあって、多分2階のくまざわ書店だったと思うが、よく電車が発車するまでの間を時間潰しした。野球雑誌、陸上雑誌が更新されたらまず立ち読みしていた(部活のカバンを床に置いて)こととか、勉強に目覚め始めた2年生くらいからは、絶対に参考書コーナー→雑誌コーナー→コミックコーナー→文庫コーナーの順に回っていた。買った本は帰りの電車で読めたし、漫画一冊くらいならちょうど30分で読破できるから、家に着く頃には読み終わっていた。高2の時だったと記憶しているんだけど、当時「信長協奏曲」のコミックにハマっていて、親も読んでいたから、1巻ずつ買って、帰りの電車で読んで、家の最寄駅で車で待機してくれている親に渡して最効率的な読み回しをしていたことがあった。

 

 

高校のころは勉強という言い訳の中で、あんまり本を読むことがなかった、買うのはほとんど参考書で、使いもしないのに受験期は何度も立ち読みしてその場で勉強して、これだと思ったものを買うくらいしかしなかった。大学に受かって、上京してからは特に本を読むようになって、忘れかけてた本を読む楽しさとか、重要性とか、改めて忘れないようにしようって思ったのが、東京に来てまもなく決意したことだと記憶している。今も細やかであるが、その定款は守れているように思える。

 

高校1年生の時の担任が言った言葉は、定期的に再生されるんだけど、彼は英語教員だったけど、

 

"(前略)全然関係ない話していいっすか?私は、大学の頃相当本を読みました。暇があれば結構本を読んでいたと思います。それで、自分の中でなりたい理想の姿があるんすけど。例えば誰かが悩んでたり、何か思って躓いたりしている時に、その人に合った一冊をスッと渡せる男になりたいなって思うんすよ、なんかそれってカッコよくないすか?カッコ悪いですよね、すいません、余計な話でしたね。じゃあ次の行読んでいきますね。"

 

 

(敬愛を込めて抜粋)

 

彼は熱い男であったけど、そういった粋なところは正直結構尊敬していたのと、なんかそういう生き方いいなって思って、コミュニケーション英語1、のノートの端にニヤつきながら小さく走り書きでメモを残したのが今も思い出せる。

自分の中で何か答えを見つけられた感覚もないし、そう言えるほどまだ本は読めていないのだけれど、自分のなりたい理想の姿の1つに今もなっている。彼は元気だろうか。

 

最後は本屋じゃなくて本の話だったけど、本屋、読書、本、そんな言葉を聞いて思い出される記憶について、ちょっと突然書いてみたくなった。そんな今日も、小さい書店と大きい書店二箇所ぷらっと入ってしまった。文学ってなんでも繋がりをもっていて素敵だな。