カプチーノ現象

内向的自己回帰型排斥主義OL

自分を安売りするな

今年は、整った文章を書くように意識しようと思う。

 

今まで通り、構成なんて考えないし、思いついたものそのまま書くのは変わらないはず。

 

 

さて、心の中で今年こそは、SNS辞めてやろうって思っている。特にTwitter

ひどく前も思って言ったことがある。思ったこと、話したいこと、言いたいこと、いろんなことが渦巻いた中で、言えない苦しみを感じたことはあるだろうか?

ここで働く外からの力、つまり他者評価を起因とする消極姿勢だ。我々は無意識にも哀しく、それに囚われて本当でない自分を見せてしまっている(それも悲しいことに無意識のうちに)。

 

恐ろしい。それが渦巻くタイムラインも。

それも含めて自分であることに嘘偽りはない。

ただ、それがネットという文化に還元されたからこそ、嫌なんだ。嫌になって何度もアプリを消したことがある。

ただ、それを許してくれない現代の情報社会の在り方すら美しい。嫌味だよ。この鎖に囚われてしまった以上、もう逃げることは許されない。

 

人は残念なことに他者からの評価を餌として生きながらえる生物だ。どんなに自己満足度が高くても、たったひとりぼっちにも支持されなかったら、トータルでマイナス。それがたった一人いるだけでもいいし、多ければ多いほどいい。それが承認欲求の根底にあるもの。

 

たった一人強い信念で信じ合える人間を得るのは困難で、実はみんな比較的浅めの水面で沢山の水を得るほうが楽とされる。

だから、困ってしまうが、だいたい恋人がいるやつは其奴が無条件かはさて置き、満たしてくれる存在がそこにあるから人生満足度が高いはずで、それを満たされない者は家族であったり、親友であったりに選択肢の裾野を広げていくのだ。

 

ただ、ここで問いたい。「浅く広く」の落とし穴を。

 

浅く広くが完璧に完成された人間がいると仮定して、その人間は、どうやって人生を幸福に感じるのだろう?

多くの人からの称賛?ただ、それを得るには多くの苦労が必要だし、上には上がいる。自分が一定の地位を築けたとしても、そのうえにさらに人気な人間、世界中から支持された人間がいて、羨望し、嫉妬し、劣等感が残るのだ。それを幸せと呼べるのだろうか?まやかしの人気は虚しいだけで、時代とともに移ろいゆく民衆はどこか不確実で、常に自分を認めてくれる人間たり得ない。人間、集団とは悲しいことにそういうもの。

 

だからこそ、恋人という存在は、生物生殖的な意味合い以上で今も強く残り続ける文化なのだ。時代が変わっても、年を取っても、少なくとも自分が生きて死ぬまでの愛は約束されるし、自発的にも約束する。大雑把に言うと生きる意味が生まれる。生きる意味があること、それ自体が幸せであることは語るに及ばない。

 

この対比をして、どちらが良いとは言い切れない。ただし、文癖から察するに、後者の方が明らかにいいに決まっている。と主張しておく。

 

実は虚しいんだ。でも、それを否定するわけじゃ無い。誰かに認めて欲しくて、いや、見て欲しくて、段ボールの中で弱く泣く子犬とか、雑踏の中、駅の隅っこで歌を歌っている駆け出しミュージシャンの、小銭が疎らに投げられたギターケースとか。

画になるとか、そういうのじゃなくって、客観的に見て、当人の立場になって、虚しくは無いだろうか?じぶんは果たして強い信念を持ったとしても耐えられるのだろうか?

 

きっと温和な飼い主の腕の中で眠る方がいいし、たった一人大切な人に涙流されるくらいの感動を呼ぶ曲を一つ作れればそれでもいい。そうなってみないとわからないけど、そうなんだと思う。

 

それで言いたいこと。自分を安売りするな。

これの宛先を頭の中に沢山具体的な人に宛ててます。特に学生に多い。

安売りするな。お前らの最終的な目的は何なんだ?カーストか?いいね数か?常に誰かと繋がりあっていたいという精神的弱さなのか?

 

さまざまなものが絡みつく今だからこそ、考えなきゃいけない。ましてやネットで全世界に飛ばしているということを鑑みても。

一度客観的に見てほしい。その一端だけを切り取られて、

「お前はこの前Twitterでこれこれどうどうだったから、お前はそういう奴でこういうタイプの人間だ」

と全て分かったように断定されてしまう、そんな世の中だ。

恐ろしく憤りを感じる。それでいいのか?

 

ある具体的な例を2つ挙げよう。

まず一つ目

 

もし、SNSを「誰かに構って欲しくて」やってる人がいるとする。

本当に向いてない。自分の品位を落とす。

公共の不特定多数に構ってということがどれ程自分の軽さを晒しているか理解したことはあるだろうか?

しかもそれを「あわよくばモテたいし、可愛い子にチヤホヤされたい」と思っているなら尚更そう(なぜこのジェンダーフリーな時代に女の子相手に限定するのか、それは新たな論ずべき問い)

モテたいなら、有名人じゃなければ即刻SNSなんて捨てるべきなんだ。

 

知らないことを知りたくて人は物事に興味を持つんだ。知らないことの垣根を減らしていけば減らすほど、つまりSNSで自分のことを開示するほど、もう知っているから興味が無くなるんだ。次第にな。

 

 

 

 

 

今更断っておくけど、俺はそれを17の時に気づいて確信した。その時は、受験があるからという理由で高校二年の夏の終わりから受験終了までTwitterを消した。それを理解した上でSNSを再開して使っているし、ここまで自分を正しくブランディング出来ていると自覚している。時々俺のことをこう勘違いする人がいる

「モテたい、彼女欲しいと思ってる」

そう思ってるなら、即刻Twitterなんて辞めてるし、Instagramなんて撮った写真と10字以内のコメントしかしない。投稿することなんて自分の私生活の本質を突かないことばっかりで、えっなになに知りたい!って思ってくれるようにすこしぼやけた投稿を本当にゆっくりなペースでやる。まあそのへんはいいや。

 

 

二つ目の具体例。

 

もしも仮に、俺が女子大生だとしたらこんなSNS利用をするよっていうポイント。テーマは、「こういう女子大生になればガード高いミステリアスババア」

 

Twitter アカウントはあるけど投稿しない。たまに好きなブランドのリツイートとかする程度。たまにする投稿例は

「道端で猫に会った。近寄ったらすごいスピードで逃げられた。悲しい」

これが4ヶ月前にあるレベル。

鍵垢だし、人のことフォローはしてるけど特に何も反応しない。ただ、本当にいいなって思ったことにちょこっと優しくいいねを押す。いいねも、相手が通知で見かける頻度を換算すると、10〜15ツイートに1個付くくらい。たまに顔をひょっと出して気を惹かせる。正直個人的にこのくらいのスタンスでいいねくる人男女問わず大好きで、その人にいいね貰いたくてツイート練ってるって感じはある。

 

Instagram インスタは、これはしちゃダメってやつをしないことが重要。まずプリクラは載せない。自分の顔面は加工された上で映えることが成り立つと晒している感じがして酷く自尊心が傷ついてしまいそうで。

次に、ストーリーで動画を投稿してもいいけど、一切俗に言う「男友達」を画角に入れない。特にそれが複数でわいわいだと、一気に自分の品性が損なわれる気がしてならない。わいわいする動画をストーリーにあげて喜ぶ人間ってフォロワー中に何%含まれてるんだろうって投稿する直前に考えたことはありませんか?ないですか。そうですか。異性がいなくてもわいわい系は最小限にとどめたいですね。

あとは、なんだろうな、異様に公共道路とか施設で友達にカメラ向けてリアクションを取れ的な動画を撮らないようにする。理由は一つ上と同じ。

Instagramってそう考えると掃き溜めでしかないと個人的には思っているし、結局やらないのが一番だと思います。

 

これが一番モテると思います。男女問わずメモして下さい。モテるっていうと違うか。いいお父さんお母さんになれると思います。

 

ここまでしっかり長く話して言うことは

 

「自分を安売りするな」

 

本当に正しく、自分を評価して欲しい自分。これを演出できていますか?ゆがんだ形でフォロワーに受け取られていませんか?これが問いです。人間は思ったよりも馬鹿だし愚かです。もし、自分がこうなりたいって思ってることと、やってることが不一致ならば、再考の余地はあるはず。

 

俺が嫌な理由は簡単。

SNS

「自分を表現する場所」

だったし、そうだと思っていたのに

いつのまにか

「他人のオナニーを見なきゃいけない場所」

になってるから。

この2つは原初的には同じ一定の流れの中にあるものだと思ってしまうかもしれない。

 

でも違う、自己表現とオナニーの間には、決定的に、致命的に差がある。俺は前者の時代を愛していた。それだけ。