カプチーノ現象

内向的自己回帰型排斥主義OL

「ひとりが映える人間になりたい」

昔ある時、自分はこう言った。

「ひとりが映える人間になりたい。」

当時にはいろんな思いがあってこの言葉が出たけれど、今の自分はそれを叶えられているのだろうか?

馴れ合いとか慣れってのがあんまり好きじゃないなって感じたのは高校のある時を境にした時で、それから集団でワイワイよりも個人でじっくり、少人数でしっとり。というスタンスが比較的ぼく好みになったようだ。昔はもっと外向型だったことはここでひとつ牽制球を投げておく。今はド内向型、でも、今の自分は好き。

 

多分そうなった大きな根因にあるのは、変に視野が広がりすぎてしまったことにあるのだと思う。例えば道端で大人数でワイワイ歩くのはほれは楽しいけれど、ふと客観視した時、邪魔だろうなとかうるさいって思われるだろうなとか考えるようになったし、気にしてしまったら楽しめなくなってしまった。いつ何時もどこかで、周りの人に気を遣いすぎてしまうところがあった。顔色を伺って、というやつ。でもそれはあまりにも生きにくい。そのジレンマと少し前までは戦って苦悩の連続であった。

 

ある時、すごくシンプルに物事を考えるようになってからそれから。すごく楽になった。

あまり人のことを考えすぎないほうが楽だし、それをいう極論なら関わらないのが1番楽だ。それは誰にも万人を愛することが美徳じゃないということだ。広く浅くでいい。ほんとうに浅い所は浅瀬よりも浅くていい。深くしたいと感じた相手にはどんどんじっくり深く掘り下げていこう。

でも、自分がそうであるように、パーソナルスペースというものはある。自分が比較的広めのパーソナルスペースをもっているから、あまり相手に踏み込みすぎないように努力する。それでいい。

 

自分は生憎自己顕示欲とか、承認欲求が著しいわけではないから、まだそこは生きやすい。人に認めてもらわないと不安で不安で仕方がなくて生きていけないってあまりにも不憫だ。

 

だから自分は誰よりも自分を愛してあげたいと思っている。自分を愛するには自分が好きな人間にならなければ好きになってもらえないし、好きにもなれない。だから、自分のもつ理想像をしっかり形成させたうえで、それに向かってひたむきに目指す自分が存在していなければならない。

 

こんなプロセスと条件を踏まえて今生きてる自分が、「映えている」ならそれは結果論だけど美しい輝きを放っているって信じている。

 

それに伴って、自分がいいなって思ったものには積極的に矢印を向けて行くし、これはよくないなって思ったことには必要以上に介入しないしNOを躊躇わない。俺はとりとめもない人に流されてしょうもないことがきっかけで大切な大切な自分のアイデンティティが崩されるくらいなら死んだほうがマシだとすら思っている。

どうせ流されるなら師となるような偉人がいい。影響を受けるならほんとうに心から尊敬している人間についていきたい。あたりまえの、シンプルな考え。この考え、染み込ませるまでには19年の歳月がかかったけれども、これがうまく使いこなせるようになった今はとても人生幸福度は高い位置にある。これは断言する。