カプチーノ現象

内向的自己回帰型排斥主義OL

固執しない

自分が経営学を学びたいと決めた原点である人の言葉。

こだわらない。執着しない。

横浜DeNAベイスターズ元球団社長、池田純氏の言葉

このノウハウが今もこれからも自分の最大のテーマになると思っている。

 

拘らないことに拘る。このモットーも自分の価値観を変えたあるフィクションのキャラクターの価値観。古典部シリーズ(米澤穂信氏著) 福部里志の価値観。

 

自分はある意味なんでもオールラウンダーでオールマイティでユーティリティでありたいと思う。

理想はすべての分野において偏差値55。そして、自分が本当に興味があるな、頑張りたいな。って感じるものには偏差値85くらいを目指す。

自分の中で感じるのは、井の中の蛙というか、ぬるま湯につかるというか、やはり、やりやすいなと感じる環境下でやることは確かにいいことなんだけど、それをあまりにも長期的に過ごしすぎると、悪い意味で「慣れて」しまうんだよなって感じる。

自分は性悪説の立場を強く肯定しているっていう面もあるけれど、やはりやりやすいことって素敵だけどどこかでハニートラップがあるんじゃない?って気持ちになる。

そりゃ慣れない環境で過ごすのは大変だし、ストレスも溜まるはずだとは思うけれど、自分としての成長は?と思う。ある程度自分を虐めてあげるポイントをつくらないと伸びない気がしてならない。親が過保護すぎると逆に育ちが悪くなる的な論理に似ている。

たしかに良い環境でやることは自分にとって大きな成長のポイントとなるかもしれないけれど、それは半永続的にそこに居るべき、というのは違うような気がする。それはたまにでいい。

 

まぁ、組織論的な意味合いを外れて、

「こだわる」

という単語に焦点を当ててみても、ひとつにこだわらない努力はしていきたい。自分が気分屋であることもひとつだけど、毎回頼むメニューをその日の気分で変えてみたり、生活の中でアトランダムな部分を作ってリズムを変えるのはやっぱり上下運動が楽しい。ただ、前述したようにハマったらとことんやる。コーヒーにしてもそうだし、陸上にしてもそうだし、ベイスターズにしてもそう。やりたいっていう欲望には嘘はつかないでやりたいならやりたくなくなるまでやる。

でも逆に、やりたくないことでも、「やってみたら案外楽しいんじゃないか?」って思ってなるべく食わず嫌いしない。それもこだわらないことになるのでは?

でも、ルーティーンっていうものは自分の中では必ずあるし、それが重要な場面も勿論ある。

 

例えばだけど、陸上のレースのスタート前の一連の動き。アレはルーティーン。同じ精神状態に持っていくことで一定のパフォーマンスは得られるとは思う。右足からブロックにかけて、目線はどこにおいて、手はどのタイミングでプラプラさせて……言語化はめんどくさい。

 

でも、その中で自分はここ4年間、毎回スタート前の動きを少しずつ変えてる。伸びをしなくなってみたり、目線先を変えてみたり、それはシーズンインのスタブロ練習で毎回いい感じに決めてる。それが少し楽しみでもある!

これのソースとなるのはあのイチロー氏のアレで、彼もバットを前に出して袖をクイってやるやつがお馴染みだけど、毎年フォームに微調整を加えているとか。ボックスに立つ位置とか。

 

こだわりの中にもこだわりすぎない精神って大事なことだよなっても思う。某高校担任が「常識を疑え」って言ってたけど、自分の中での当たり前のバイアスが神秘的に客観視した時に疑問符が出るんだよね、そこの疑問符を大切にひとつずつ突き詰めたいと思うし、それが「こだわる」ことだし「極める」ことだと、自分は思う。

 

2つの観点に大きくわけて話したけれど、自分は己にも他人にも固執しすぎないでぬくぬくとひょうひょうと生きてる人が素敵だなって感じるしイデア