カプチーノ現象

内向的自己回帰型排斥主義OL

死ぬのは怖くないのか

答えから言えば怖くない。

なぜかというと、死ねば何もかも無くなってしまうから。それはあくまで主観的な意味で、だけれど

例えば自分が今突然謎の痛みとともに即死したとして、生体内の細胞の機能が全て停止したとする。それはもちろん脳細胞も。その細胞の機能が停止した時、自分は意識を失う。その意識は帰ってくることはない。ただそれだけだと思う。

自分の今ある意識ってものはあくまでその細胞たちが頑張って作り出してるだけで、自分の魂って言われてるものは死ねばなくなる。それが彷徨うっていうのは非科学的だ。だから、自分の魂がどこに向かうかわからなくて怖い。という感情はない。だから、ある意味天国とか地獄とか輪廻転生とか、あんまり深くは信じ込んでないんだと思う。だからこそ無宗教な感じもある。

次に自分がいなくなった後のことを考えると怖いということ。これもまた怖くない。だって、俺自身には全く関係のないその先の世界がどうなろうと関係ないのだから。だってそこに自分はいないし、親族がいろいろ大変になるかもしれないけど、世界というのは上手く行くようにできてると信じてる。正直自分という存在の価値がいつか風化されて無くなって、自分はいなかった。そんな扱いされる方がよっぽど怖いけどね。どうせ死ぬなら爆誕ならぬ爆死で、記憶に残るように努めたい。

「長生きはつらいよ」

って、ある長寿のお婆さんの言ってた言葉が今も心に残ってる。

長く生きること。それは長くここに留まらないといけないってこと。それまでにたくさんの愛する人の死を見届けないといけない。たくさんの人と出会って、たくさんの人に愛されて、愛して、でも、その分長生きすると別れもたくさんあるって。ドキッとしたよね。だから、俺の中での意味で捉えると、あまり長生きする意味もないなって感じる。病気が出たなら延命治療なんていらない。スッパリ未練なく死にたい。そう今も思ってるし、なんなら事故死とかでスッと逝ったほうが俺らしいかなって思う。不謹慎だと言うなら言ってくれ。

 

こういう考えに至らしめたのは、やっぱり中学2年の腸閉塞での全身麻酔の5時間に及ぶ手術からの3週間の入院生活のなかで確立した。弱冠14歳で初めてしっかりと「痛み」そして「死」と向き合ったときだと思う。俺は傷んで痛んでまで生きたいのか?とか、俺はどうして生きるんだ?どう死ぬんだ?とか。本気で死ぬって思うくらい腹痛かった時に、死と隣り合わせになって、本気で生きることについて考えた。

 

で、今の中での結論は、毎日が悔いなく生きれればいい。もし今眠りについて二度と目が覚めなくて、完全に意識が消え去った時、後悔しなければそれでいい。そう思えるように毎日を計画的に過ごす。そう決めたしそう生きているつもり。

 

でも、例えば俺が今日ここで死んだ時、バイトのシフトがまだ残ってる!とか、奨学金返してないのに死んじゃうのか!とか、いろいろ理由があって死ねないから自殺なんてバカな真似はできない。俺が仮に自殺するならこの世から何の未練も残さず綺麗に死ぬ。それが美しい死に方だって思ってる。突然のように死んでしまう世の中だからこそ、毎日を楽しく生きたい。もしいついつまでに死にますよ。そう宣告されたのなら、立つ鳥跡を濁さずな死に方をするよ。

 

結論、死ぬのは怖くない。でも、一番恐ろしいのは死ぬほどの痛み(精神的にも身体的にもいずれかまたは両義的な意味で)をもってして、死ねないこと。本当に恐ろしい時は声も出せないんだ。強くないと叫び声もあげられない時が来るから。