カプチーノ現象

内向的自己回帰型排斥主義OL

考察と考察

昨今メンヘラが注目を浴び続ける近現代において、

シンプルにメンヘラに興味があって、それに関連した記事だったり本だったりをよく読むようになった。

メンヘラになるとか、メンヘラであるとか、その思考回路に到達するまでの過程は非常に興味深いものがあるし、

なぜ、多くの人は、自己に顧みず、ある種「考えないことがしあわせ」を体現したかのような生き方をして幸せであるのに、何故、一部の人間は自分とは何か問いかけ、語りかけ、思い悩むのか。そして最終的に、自分を傷つけたり、命を絶ってしまうほど追い詰められてしまうのか。

 

自分で自分の首を両手で絞めた時、人は苦しむ。息が止まって、意識がなくなる直前に条件反射的に手の筋肉を弛緩させてしまうそう。人間は、自分で自分を最大限まで追い詰めることは生物学上不可能なのだ。

 

つまり、人間が最大限に追い詰めることができるのは、自分以外の人間たちだ。他人とのかかわりをもって生きる中で、自分をいい意味でも悪い意味でも侵食されていく。そうやって、自分とは?と問いかけた時に返ってこない回答に虚しさすら感じてしまう。

 

そうして感じるのは、人は人生の時間を横軸に置いた時、きっと指数関数的に多くの人とかかわることになる。そうやって、生きているうちに、自己は徐々に蝕まれて、自己領域がどんどん小さくなってしまうのではないだろうか?

 

自分を演じる。という表現をあるエッセイから引用させてもらう。人間は小さいころから本当の自分をどこかに追いやって、演じた自分で生きているのではないだろうか。親の言うことを聞く行儀のいい子を演じ、誰にでも笑顔を振りまく優しい同級生を演じ、人懐っこく礼儀正しい後輩を演じ、優しく心が広い先輩を演じ、どこか陰をもったミステリアスな知人を演じ、慈愛と淑愛に満ちた恋人を演じるのだ。本当の自分を隠して。

 

じゃあ本当の私はどこにあるのか?そういった問答が繰り返されていくなかで、人は思い悩み、生きているのだろう。

 

それが一人や二人を相手にしているのならば容易いのだろうが、80億人地球生きとし生ける我々の容量には限界がある。その結果、論理的にウイルスは侵入していって。悲しいことにメンヘラは生まれていくのだろうかなと思う。これがここ数か月調べたうえでの考察。

 

それを悪いとは思わない。社会不適合だと思わない。自己内省を踏まえてしてなお、自分の在り方を追い求める姿はある種美しいのになぜ卑下されてしまうのか。まあ、それはそれでやなんだけど。