カプチーノ現象

内向的自己回帰型排斥主義OL

古賀ちゃん

まず、この本文は青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない

の第6話までを踏襲したネタバレを含むので宜しくおねがいします。

 

古賀ちゃんが可愛いこともあるけど、今敏感なスマホ世代ありがちな話題になり、それが一つの形となった作品。

周りの空気に合わせようと必死になることで、未来まで見通せてしまう力なんて欲しいかどうか。

みんなそう、みんな周りの目ばっか気にして結局自分に嘘をつき続けて何が何だかわからなくなっちゃって。

そうやってその場しのぎで毎日を生きることに何か意味を見いだせるか。見出せればそれでしあわせ。

他者排斥論者の自分が言うとバイアスがかかってどうしようもないのはわかってるけど、人のせいで何か自分が失われてしまう、自分が自分でなくなってしまうなら、人なんていなくなって仕舞えばいいよ。

いろんなこと、言葉だったり、センスだったり、気持ちだったり、いろんなことに自分の世界観があるはずで、それを表現できること、それこそが人間で最も大切な権利だから。絶対に譲りたくはない。それだけは

それでも素直で不器用で頑張って、自分なりの形を見つけていけることこそが幸せで、それ自体に人は輝いて益々魅力を身につけるの。そう。

みんな、周りに合わせようとして、みんな一緒の人に見える。つまんないことに。目立ってればモブキャラじゃない?答えはノー。目立っててもそれがありふれていればモブキャラ。結局人類70億のひとつのカテゴリーに過ぎないの。

70億分の1でありたい。そのほうが絶対に楽しいし自己肯定感も段違い。

少なくとも、自分の周りにいる人はある程度種類に大別できるし、その中で、個人で例外的なテリトリーに入る人って本当に少ない。けどそんな人が好き。

逆に自分でも、あなたから見たコミュニティの中で一際色が気色悪い、異質なトゲのある何かで居たいよ。ありふれたらそこで試合終了ですよ。

 

で、いやだと思ってループしてしまうサイコロ。何度振り直しても、結果が変わらないことは実は分かっているのかもしれない。でも、それでも、そのサイコロを振ることそれ自体に意義があるんだ。どこか古賀ちゃんはループの中に溺れて、ずっとこのままで居たかったのかもしれない。ずっと真夜中で居てくれたら本当に人生苦労しないんだ。ずっと真夜中でいいのに。ずっと。朝なんて訪れなくて。ずっと布団の中、暗い部屋で一人、何かに耽るそんな時間がずっと続けば良いのに。それを嘘で重ねても、重ねてもやっぱり無理だ。無理だから、無理だからこそ、価値があるのかもしれない。

 

最後にひとつ。

「かわす」

躱すって単語。動詞。

これがなんて無責任で、傲慢で、自分で言っていて恥ずかしい言葉なのか。

誠意とか、自惚れとか。色々なことでぐるぐるしても、それでもその事実だけがそこにある場合、自分は果たしてその事実と向き合えているのだろうか?向き合えてはいなくても、誠意を持って、責任を持って正面から戦う意思を見せられているのだろうか?

わかってはいない。けど、わかっている。それがどこまで悪人であるのか。正直俺が一番反省しているよ。