カプチーノ現象

内向的自己回帰型排斥主義OL

"なりたい自分 と なれない自分"

 

最近よく感じることなんだけども、

自分ができると思っている範囲のことが、必ずしも自分がやりたいことじゃないこと。

そのずれがあること。こういったことが好きで、こういったことがしたい。そう思っていても、環境だったり(本来、これを理由にするのは本当に屈辱なんだけど)、自分の能力だったり、関係性だったり、そういったことでなりたい自分になれない場合。

「できる」「やりたい」「好き」この三軸がすべて高い水準で保てていることがまずまれだし、それを見つけている人が、いわゆるカリスマだとか天才として生きているのかとは思う。でもそれは万人にはきっと平等に配られている。それを見つけられるか、見つけられないかの差だと思う。いや、そう思わないと、正直きつくてやってられないよ。

こんなことを考えてしまうのも、ある意味自由だからなんだろうね。「自由」って言葉はどこかいい人ぶってるように見て取れるけど実は悪者だよ。自我だとか、考える脳だとか、感情だとか、そういったものを持ち合わせてしまったから、こうやって考えるのだね。非常に面倒なシステムだな。革新派ではないので別に其れが否、はよ変えろまでは感じないけど。

悩めることそれは幸せだよ、それは時代の軸から見ればそう。

別に誰の事自分のこと話しているわけではないんだけど、そういったものなんだなあ、ってぼんやり頭に入ってると、うわぁ、自分が考えてることなんか味噌っかすのちっぽけなものなんだなぁ。って我に返って急に俯瞰して落ち着く。みんな結局何十億分の一にすぎなくって、数兆の分子からなるただの物体だと思えば、まあその程度なんだよな。

 

ま、そうはいってもそうならないからこんなもん書いて残しているわけだ。

俺は、自分のことを、すべての範囲において偏差値50~60の範囲でこなす人間だと解釈している。結構しっくりしているし気に入ってるんだけど、逆を言えば、これだけは負けないとか、これをやらせれば日本一とか、そういったことがないこと。何でもできる人ってのは、実はなんにもできない。違うかね?器用貧乏ともいえば、無駄遣いとも言う。こういったスペックのほうが非常に生きやすいことはわかっているのだけど、でもやっぱり、ないものねだりでも、欲しいなって思うものはたくさんある。自分には突飛なアイディアセンスもないし、自分の頭の中で持っている世界観を媒体にのせて表現する能力もないし、他人に伝わるような叫びを形にすることもできないし、人を惹きつけるような魅力を持ち合わせているわけでないし、人間を理解しようとする意欲もないし、人を想って尽力する心もない。まあ必要不必要かは置いておいても、そのなかでも、自分が「ほしい」ってそう思うものはいくつもある。それがほしくて仕方ない。だって持ってないから。持ってないけど、自分がそうなりたいから。他の人にとっては当たり前にあるような基本スペックでも、俺のHDDにはインストされていなかった。それが逆にも起こり得るわけでも、俺はそのなかで当然のように搭載されていてほしかった。なんでないんだろう。自分自身の容量にも限界はもちろんある。だから、何を捨てればいいのか。そういう風に自分を、何かのコンピュータみたいなシステム上の概念で考えてみる。もしかしたら人間もAIなんじゃないか。

 

AIの人間化により、人間の職は失われつつある。人間とは?そういった哲学的な何かが問われている現代に、敢えて、「人間のAI化」そういった課題について、問題提起としてぶん投げさせてもらって、うやむやにしてしめる。お疲れ。