カプチーノ現象

内向的自己回帰型排斥主義OL

親子丼を見ていつも考えること

あんまり気持ちのいい話じゃないから、そういった話が苦手な人は見ないほうがいい。俺は言ったからな。

 

親子丼って最初に名付けた人絶対サイコパスだよねって話を親子丼誰かと食べるたびにするんだけど、の話

 

親子丼。一般的には鶏肉と玉ねぎを甘辛く和風だし、しょうゆ、みりん等で煮付けて卵でとじ、彩りで三つ葉を乗せ、白飯の上に盛った一品料理。

 

何故親子丼と呼ぶのか?そんなこと少し考えれば確かにわかることで、卵と鶏が親子だから親子丼。単純明快なネーミング。何一つ一点の曇りもないもの。余談で、よく成人向け同人誌で親子丼だの姉妹丼だのあるジャンルもそこから派生したものだと思うし、食品の話に戻せば、シャケといくらで親子丼。という洒落た海鮮版も世の中には存在する。別にそれだけの話。

 

ここで2つ疑問をあげる。

 

ひとつ。ほんとうにその卵と鶏は親子なのだろうか?答えは限りなくノーだろう。任意にスーパーから抽出された卵と鶏肉が、同一、または半数が完全に一致した遺伝情報を持つ個体である確率は一体何パーセントだろう?

牛の話をすると、彼らは乳牛と肉牛。家畜として生まれてしまった牛たちには、乳を出す担当の牛と、肉を売り物にする牛に別れるらしい。勿論、品種による味の違いもあるが、与えるエサなどにも若干の違いがあるそうだ。だから仮に、牛肉を牛乳で低温で長時間煮込んだものを白飯の上に乗せて親子丼、と名乗らせた場合、彼らは確実に親子でもないし、そもそも肉体と子に飲ませる栄養分を親子と定義するのには些か不都合だ。それよりも単純に、まずそう。

 

話を戻す。親子である確率は限りなく低い。そしてもう1つの疑問は、仮に親子だったとした時の、社会的悲惨さ、人間の道徳倫理の欠如極まりないこの丼上で起きる残虐事件をこんなとんちの効いた親子丼という名前だけで解決すべきなのだろうか?

 

親は家畜として生を受けながら、生きていて一番脂の乗っている時期(この表現は敢えて使う)に斬殺され、無機質なラインで身体をバラバラにされ、肉を部位ごとに加工され、時には保存という人間の都合に合わせて氷点下に放置され、数センチ角に切り刻まれ、鍋に入れられ、加熱される。

子は受精することもできず、生を与えられることのないまま出荷され、突然外界からの衝撃、ドロドロに、黄身と白身が分からなくなるまでに溶かれ、鍋に流し入れられる。

 

鍋のなかで、彼らは出会う。何日振りの再会なのかは知らないが、こんな人間の一方的な支配の下、火にかけられた鍋の上で出会う。間も無く、100℃以上の熱をかけられ、1つの料理となって卓上に出され、人間に食される。

 

それを人間は

「ああ、これは卵と鶏肉を使うから、親子丼だな!ハハッ、俺うまいこと言った」

と満たされた胃袋を撫でながら笑うのだろう。

 

人間とは時に慈悲深いのかもしれないが、性根は残虐で、性悪である。いや、そう自覚すべきなのだ。自分が人間として生きている以上。

 

世の中には支配と服従の構造があり、どんな世の中でも最終的に消えること、拭い去ることは出来ないからこそ、それに盲目にならず、いつか、たまには回帰して、見つめ直さないといけないはずなのだ。自分の生き方や、行動、価値観というものを。

 

自分の今日のあの時のあの行動、あの言葉、あれはみんなにはどう解釈されたのだろう?違った解釈をされて、不快な思いをさせてないかな?

そう考えて、布団の中で考え出したら止まらなくて、不安になって眠れなくなった夜が、小さい頃に何度もあった。自分は割と臆病で、八方美人で、心配性だからこそ、苦労した面もあった。

 

今はどうか。特に何も考えてない、と言えば嘘になるが、そこまで相手に期待や願望といった類いを持たなくなった。それは生きやすくなったという反面に、自分自身、人間としてあるべき、いや、すべき思考を放棄しているのではないか?自分の生き方を回帰し、何かを認め、何かを鑑みる必要があるのではないか?それが誠意というものではないか?

 

と考えてはみるが、やはり親子丼は美味しいから、自分の好物ランキングベスト10にはいつも顔を覗かせる、そんな好きな食べ物の話。

 

なか卯でいつもこんなこと考えると思えば、なんてつまらない人間なんだろうな。絶望の男子学生