カプチーノ現象

内向的自己回帰型排斥主義OL

「デザイン」への認識が変わった

自分が表現したい世界は、広く愛される世界と共存が難しい。

 

自分の少し前まで定義していた「デザイン」とは、自分の内在的なイメージを表出化する作業で、自分の思い描いた世界観を表すものだと思っていた。

 

内在的なものは、実は表現することって難しくって、例えば語彙力が無ければ正しくものを表現できないし、芸術的センスがないと、脳内で思い描いたカタチが正しく表せないと思っていた。

 

だから、自分が脳内で考えていたことがすべて正しく表現しようと努力する活動こそが高貴な芸術活動で、それがデザイニングだと思っていた。

 

でも、実はそうではないことに気づいたのは、ごく最近のことである。

 

なぜ、デザイナーの世界は多くの人間に愛されるのだろうか?

それは、デザイナーが大衆の世界観を理解し、それに合わせたデザイニングが出来ているからだと知った。

これは非常にマーケティング的思考に近いもので、当然のことなのかもしれないが、対象ターゲットに対し、彼らの共通認識として内在する世界観を理解し、それを正しく表現できるのが、優れたデザイナーなのだ。

 

それを文章でできればライターだし、それを短いコピーでできればコピーライター。

一つの被写体をファインダー越しに収めればフォトグラファー、キャンバスに落とし込めば画家なのである。

 

それが評価されるいわゆる「天才」とは、必ずしもすべてを自分本位で表現しているわけではない。届けたい相手がいて、心を動かしたい対象があって、確かなる意図があってそれは生み出されているのだ。

言われてみれば当たり前のことなのだが、意外にもそんなことですら盲点なのである。

広義の経営学は、いや、学問のすべてには、その要素は確かに存在しているのだろう。

 

一見複雑な概念でも、よくよく考えてみれば、非常に単純な構造、定義、定理の集合体でしかないのだ。それをシンプルに伝わりやすく描くガイドラインを示すのがデザイナーなのだ。

 

世の中には、この定理を知り得ている者はどれだけいるだろうか?

 

確かなのは、自分はかつて、前者の考え……自分本位のデザインについて思索を練っていた。ならば、それはデザインではなく、エッセンスでしかないのだろう、と感じた。

 

文学、芸術がそれを評価されるのは、それを評価する人間が一定数多く存在するからだ。

それはなぜか?すべては共感であり、理解である。

 

共感を呼ぶには、対象ターゲットに共通する感情概念体を理解しないといけない。

理解を呼ぶには、「マニュアル、説明書要らず」の大衆向けのわかりやすさがないといけない。

 

いくらわかりやすい内容でものをあらわしても、それに共感が得られない独創的すぎる内容なら、あまり響くことはないだろうし、

いくら共感を得られる、「もっと評価されるべき」ものでも、理解しがたい可読性に欠けたものならあまりにも空しい。

 

それらを考慮したうえでのデザイニングは確かに重要なのだ。そんな大切かつ当たり前なことでさえ、人は結構盲目なんだな、と自省するのである。