孤独を愛している
一人は時に寂しいものと表現される。
それでも、人は孤独を愛さねばならない。
人はいつかは1人だ。常に複数で生きることができるのなら、それは人間ではない。それは宿命である限り、その孤独と対峙するだけの覚悟が必要なのだ。
人間が、自分だけ一人で生きる瞬間はどれほどあるだろうか。家族と暮らしても、一人で暮らしても、恋人と暮らしても、極論、トイレは一人だし、寝てしまえば一人だ。そう考えると人生の半分くらいは一人で過ごしていると言えないだろうか?
一人でいる分、その時間の割合が大きい分、自分のことが好きでないと、逆に嫌いだと、嫌な自分としか向き合えない時間がずっと続くことは苦痛他ならないだろう。
自分に対する愛情を、他人からしか享受できないのだとしたら、ちょっと辛い。たしかに、それにより人との関わりをより大切にするという気持ちが生まれるのかもしれない。でも、もし、自分を正しく理解してくれる人が居なくなってしまったのなら?
若いうちは、そんなことないって笑えるのかもしれないけど、それこそ老後とか、ちょっと離れたところに一人で生きる時とか、いろんな時にその壁に向き合わないといけないのではないかな。
自分自身を慰められないのなら、不特定多数の人に愛を求める必要がある。そういった過程で、ネット上でやり場のない愛憎が蔓延ってしまっているのかもしれない。
自分が、自分を愛することができれば非常にエコロジーであるのは違いないし、そうやって自分らしく表現を続けていれば、自分を正しく理解してくれる人が、自分を正しく愛してくれるという構図があると信じている。
自分は、かつては万人に愛されたい、認められたいと考えていたことがあった。人に嫌われるのが嫌だと言うよりも、人が誰かを好き嫌いとやかく言う構図が不快だったからだ。誰かに嫌がられるととってもストレスだったし、多くの人、ひいてはすべての人間に自分らしさを承認して欲しさまであったと思う。
でも、それはあまりにも理想論で、傲慢である。自分も好き嫌いがあるように、人間には好き嫌いがある。不可能なら、自分のことが受け付けられない人がいるのもまた事実他ならない。
結局、今行き着いた癒着点とは、
「とりあえず俺は自分の生きたいように生きる。それを勝手に覗くのも、俺の物語に参画するのも自由。ただし、興味がないのならこの部屋から出ていけば良いし、嫌いならそちらから関わりを絶って欲しい。」
でしかない。
それだからこそ、孤独を是認するのはある意味当たり前の行為だ。むしろ、人の意見とか評価だとか視線だとかを気にしすぎておっかなびっくりになっていたのと比べると、スッキリと体が軽くなるのである。
人に愛されることを本気で望んでいないことが、果たして社会的に正しいのかどうかは分からないけど。
でも、逆に自分の感覚としては、自分が本当に愛したいと思った人しか愛さない。というこちらからの矢印は価値観として得られることとなった。
好きなものは素直に好きって思って好きになれるようになったし、苦手だなって思ったものは、波風が立たない範囲内で自分でスッと切り捨てることができるようになった。
今まで我慢してやっていた嫌いなことも、ヒトの顔色を伺っていた時間も無くなると、その分のストレスも無くなるだけでなく、空いた時間を自分の好きなことに回すことができた。
それは、社会的には自己中心と呼ばれるのかもしれない。
自己犠牲を知らないうちに続けるうちに、これは価値ある犠牲だったのか、無駄死にだったのか?を自分のことを考えるようになった。
昔を思い出すと、ひょっとしたら無駄死にをしていたことが多いのかもしれない。自分が死ぬだけの価値があった相手なのか?とか、他の人でも良かったんじゃないか?とか、なんで自分が?と思うことだって少なくない。
この人、この組織のために死ねるって思えるところで犠牲になれたら、時間と金を使えれば本望なのであるが、どうもそういう所じゃないところで自分は無駄死にしてしまう性分なようである。
だからこそ、愛したいと思うところでは快く死ねるのである。
そういう組織、人間、対象が見つからないのなら、愛することができる自分にひたすら奉公していればいい。ある種の自慰行為外ならない。でも、そうでもしないと、無駄死にしてしまうのはあまりにも傷ましいから。