カプチーノ現象

内向的自己回帰型排斥主義OL

対話だった

先月は情緒が無くって、いろんなことに押しつぶされて生きていたから、たくさんアルコールに頼ったし、ひとりごとを部屋でつぶやくことが多かった。

具体的に話せないようなことばっかりなんだけど、備忘録として残しておく。

 

  • 自分の価値について
    自分は時に自分のことを過小評価しすぎることがあるし、過大評価しすぎることがある。それはそれで構わないのかもしれないが、それで困るのは、
    自己と他者の間での認識の違いだ。
    自分のなかで、そこまで労力を充てていないことで、そこまで好き好んでやっていないことで、相手からそれを多大なる評価を受けた時、当惑してしまう。自分の好きなこと、やりたいことでないのに、いろんな人から評価を受けて、なんならそんなところが君の魅力だって言われると、少しだけ贅沢なんだけど返上せざるを得ないんだ。
    逆に、自分が好きで、労力を割いているものほど、自分の追い求める理想からはかけ離れてしまうし、人からは評価されない。別に、人から評価されるのを求めてやっているわけじゃないんだけど。
    もしかしたら、自分は自分の評価を正しく見積もれていないのかもしれない。でも、自分のやりたいこと、好きなことで周りを埋めたい。それでも、そんな幸せなことで飯を食っていける人間なんて一握りだ。自分はそれだけ、こだわり派になる価値のある人間なのだろうか?
    世の中には才能に富んだ人間は一杯いる。そのなかで自分の価値とは?
    2つあると思う。自分が客観的に得意なこと、評価されていることで生きること。もう一つは、自分の好きなことで細く暮らすこと。
    自分は才能があると自覚するほど傲慢じゃないし、才能がないと悲観するほどじゃないが、そこまで凄くない、大したことない人間だ、という現時点での現状であることは間違いないのだ。
    近くに、「好き」と「才能」と「努力」と「評価」を見えない努力から(もしかしたらそれを努力と思っていないのかもしれない)手に入れている人を見た時にはもう。そう感じざるを得ない。圧倒的な差、絶望から生まれる羨望である。


  • 結婚願望がないと公言し始めたのは10月から
    残念ながら、世論の期待に反し童貞ではあるが、それを誇らしいとも恥ずかしいとも思わない。多分自分は、結婚とかそういった類いは向いていないと気付いた。他人の恋愛事情を聞いても大して興味が無いし、それを自分に当てはめて考えるとは以ての外である。自分は変に空気が読める代償に、基本的に人に気を遣えない、表面的なコミュニケーションに障害はなくても、核心を突いた交友はひたすらと言っていいほど求めていない気がした。こんなこと言ってしまうときりがないが、人は自分の思考を100%預けることは不可能だ。そう割り切って接すると「ドライだ」と評される。どうせ人間は、都合のいい時にしか人肌を求めない。都合の悪い時は一人でいたいと思うことは人間あるし、寂しい時は寂しい。そんなこと、一々相手に合わせてられないし、自分のような気分感情行動がコロコロ変わるような人間に合わせるのは御免だろう。寂しい瞬間はないのか?という質問に、ないよって即答するのに嘘はないが真実でもない。寂しい時はそれは寂しいかもしれないが、寂しいという自分の都合のいい感情を、他者の時間を割いてまでうやむやにする権利はないし、それならほかのことで気を紛らわすことのほうが楽しい。よく勘違いされるが、自分は性欲は人並みにはあるし、男ではなく女の子大好きなんだけど、自分の時間のこととか、金銭的なこととか、相手の気持ちを考えると「可哀想」って感情が先行してしまうこととか、人に気を遣うと自分が疲れて嫌になってしまいそうなこととか、自分の人生設計のこととか、多分俺は人を幸せにさせることに向いてないなとか、いろいろなことを加味したうえで、「結婚向いてないし、結婚願望ない」という結論に妥結した。


  • 「モテるね」は嘘
    人に、お世辞の常套句のように「絶対モテるよね」って言われるけど、嘘でもほんとでもどっちでもあんまり構わないから、実際に普通にモテてない。それは印象論。それが真だとして、俺ファンは全国に100万人いるわけだけど、あまりにもアピール不足だし、受け手側の自分も信号を意識的にスルーし過ぎている。こんな性格難、関わるだけで不幸だ。


  • 答え合わせって結果論でいくらでも後悔できるから残酷
    例えばでジャンルを変えて近い話をすれば、昔好きだった人をあきらめた理由が、その人が好きになった人が自分と真逆のタイプの人間だったから。そういう感じなら、吹っ切れるし、むしろ応援してあげたいくらいの感覚だよね。でも困るのが、別れて、次に付き合った人のタイプが、自分がなりたくてもなれなかった、理想像の尊敬できるような人だった場合。自分がなりたくてもなれなかった、憧れの対象って、尊敬の対象にもなるし、自分のコンプレックスたる姿だったりするよね、それって、現状の自分と比較しても大したことないんだけど、過去の自分の葛藤した姿とか、その思考を鑑みると、とっても悔しくなるというか、もっとこうすれば、とか、タラレバを考えてしまって、でも、そんなこと非生産的で、気色悪くて、そんな虚しさがある。
    期待は諦めからくるものだ。自分と対等な立場にいる人間へ生まれるそれは嫉妬で、自分が圧倒的にたどり着けない上にいる、凄い人に対してはやるせなさしかないんだ。


  • 存在価値
    自分は、控えめに言って存在価値がない。そんなことないよって、他者から言われても気休めにもならない。自分の評価をして、一番それで救われるのは自分他ならない。自分が納得して生きることが出来なければ、自分の幸福度は依然高くないままなのである。
    今日、「快楽主義者のパラドックス」という話を見つけて、少しだけ痛い所を突かれたような感覚になった。気になったら調べて欲しい。
    自分は日々快楽主義的だと思う。そう思っていたけど、今思えばどちらかというと、「不快を取り除いて日々生きている」と再定義したほうが正しいだろうか。
    別に今の自分に不満があるわけではない、ただ、減点ポイントをひたすら取り除いて生きている、という方が正確なのだ。マイナスを取り除くだけでは、ポイントは加算されず0のままである。
    それを悪いことだとは思っていない。満足してしまったらそこで成長はストップしてしまうと思うし。自分のやりたいこと、好きなことが自分の満足のいくレベルまで成長するまでは、頑張りたいと思うし、その意欲を超えるような、別のベクトルでの嫌なことがかさんでしまったら、確かに合点この人生をこれ以上ムダに進める理由は無いな、と感じるのである。
    自由が過ぎると実に不自由ではあるのはもっともな意見だが、俺は自分の好きなことが奪われてしまったらすぐに死を選ぼう。


  • 「選択制」の重要さ
    Twitterを辞めた最大の要因は、自分が得られる情報を選択したかったから、ということにある。自分はプライベートゾーンが広いほうで、他人に土足で上がられるのは困るのに、実生活以外でも、人と関わらないといけない理由とは何なんだろう。と、真剣に2019年初頭から考えていた。
    「自分が何かを発信したいから」という返報性の法則からくるある種の義務として、見たくもないものを見ていた気がする。もちろん、普通に見たい人も少なからずいる。今も、普通にツイートが気になってみたいと思う人もいるけど、それに拘束されるのもどうかと思うし、自分もまたそうであるように、土足で踏み込むことに躊躇いがある。
    「自分はこういう人間!みんなだからこう理解してくれ」って、ネット上でマスターベーションみたいな掃きだめ、誰かと常につながっていないと死んでしまうようなえら呼吸の現場、ちょっとだけ気色悪いなって思った。SNSで知人の情報を集めなくなってから、少しだけ、あの人はどうしているかな?って考えるようになった。こんな時に頭に浮かぶような人間こそ、大切にしていきたいし、逆にそう思われた人にこそ、現実でもっとエンカして、一緒に飲みに行って、三次元上での記憶を作っていきたい。そう感じるようになった。
    昔はネットが無くって、会える貴重な時間で情を深め合った。そのころの良き感性を捨てずに生きたいのである。

 

 

 

結局、何もかも、自分との対話で解決の糸口、逃避へのつながりをもたせてくれた。

2019年10月は、いろいろありすぎたから、自分の人生史を振り返った時には、ペリー来航ばりに大事なセクションになることは間違いない。

人生ってむずいな、!

人の痛みがわかる人間とはなんだろう。

人の痛みがわからないとは自分を卑下しないが、人の痛みがわかるか?と言われると、いや、そこまでに自分を評価するのは傲慢だろう、と思う。

 

人の気持ちを理解しようと思うのは、必ずしも良いことだと言えるのだろうか?

だいたい、おせっかいに勝手に自分の領域に入られるくらいなら、関わらないでいてくれる方がよっぽどましだと思う。

 

そんなことを思う人が多い割に、人は何故人に自分の理解を求めるのだろう。認めて欲しい、見つけて欲しいと願うのだろう。

自分が世界で一番必要な人だ、と、他人からの評価を求めるのだろう。

 

その微妙な齟齬、価値観、認識の違いが微妙に絡まる思考。

なんて脆いのだろうか。

 

人はちょっとだけご都合主義だ。それを美しいとは思えないけど、その醜さそのものが人間なんだろう。

 

人の痛み、わかってやりたいとは思えないけど、

人の感情に、ちょうどいい距離感で寄り添ってあげられる人間でありたい。

 

それをどうやって?

物理的に、直接的に解決するのは良いだろうけど、

それを、歌とか、文章とか、絵とか、そういったもので寄り添えられたら、オシャレだし、本当のやさしさたりえるよね、って思うのは、私だけでしょうか。

人生のバイブル

基本的に精神が安定している時の方が、文章を書きたいなって意欲が湧く気がする。

 

絶対に自分の価値観で外せないもの

過剰に箇条書きと、少しだけ解説と。

 

氷菓古典部シリーズ』

綺麗なだけじゃない青春の苦さと、自分への苦痛が痛いくらいに青い。その青さは忘れないでいたい。

 

青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない

思春期は病気だ。苦悩が具現化してしまった時、自分ならどう立ち向かうのだろう。立ち向かわないといけないのだろうか。

 

南條愛乃

つらいことも悲しいことも、「そんなことあったよね」って笑いながら、誰かの辛い時に無言でそっと寄り添うだけで人は救われるんだ。

 

・ずっと真夜中でいいのに。

光は時に冷たい。だから、この暗い闇の中で逃げ回ってずっと何かを思い続けていたいから、誰にも邪魔されたくないから。

 

・NieR Automata

機械なんて感情はないよって言うボクタチは、ほんとに感情があるの?常識は覆されるからいつも何もかも絶望的だ。

 

ファイナルファンタジー

無知は時に最強だ。ルールという螺旋に縛られてしまうのは、ある意味救済なのかもしれない。でも、抗っていたい。

 

ファイナルファンタジー

創られた自分、演じてしまった自分も、きっと自分の一部だ。多重人格は時に優しさで、強さだと思う。

 

物語は何かを映し出す鏡で、鏡に映って自分と同じ動きをしているものを「自分」と定義するなら、

なんと、自分というのは後付けの理由から存在しているものなんだろうか。

 

自分の根源は自分の内から滲み出てくるものだと、ついこの前までてっきり勘違いしていた。でも結局、自分は周りの何かから認識されないと、表出化されないと、自分は自分に馴れないし、成れないんだなって思いませんか。思いませんよね。そうですか。

眠らないまま目覚めることも出来ない

 

「ホータロー。僕をこだわり派の人間だと思うかい」

「そうだな。趣味人ではあると思う」

「そこが決定的な誤解なんだ」

「趣味人とかこだわり派の人間ってのは、何かに打ち込むものさ。そしてその分野では、誰にも負けたくないと思うんだ。毎日が発見と研鑽の日々だよ」

 

(中略)

 

「つまらなかったね。はっきり言って。なにしろ、それだけ勝ちたがって、勝ってもつまらないんだから始末におえない。そのころはなんでかわからなかったからいろいろ考えたけど、馬鹿だね、面白い勝ち方をしなきゃ面白いもんか。

 で、ある日、僕はそれに飽きた。こだわることをやめた。いや、違うな。こだわらないことだけにこだわるようになったんだ。きっかけは、もう忘れたよ。

 それからはね、ホータロー。本当に楽しい毎日だよ」

 

(米澤穂信 『遠回りする雛』 手作りチョコレート事件 より)

 

 

ずっと昔から好きなフレーズで、今もこれが頭から離れない。

 

この言葉を引用して、今の自分の座右の銘は、

「こだわらないことにこだわる」

になった次第である。

 

結局、何かで第一人者になろうとすると、上ばっかり見て、キリがなくって、なんだかいつかどうしようもなくなってしまって、あきらめてしまう。絶望してしまう。

 

自分の好きなように生きて、毎日の生産性を高めて、シンプルに自分の選択肢でその時その時で最適なものを得られればそれでいいなって、そう思って生きればいいんだ。

 

でも、ただ、本当にそれでいいのか?って疑念はいつも心の何処かには潜んでいる。

 

里志の一つの壁は摩耶花だった。こだわらないことだけにこだわって生きると決めた人生で、彼は彼女にこだわっていいのだろうか?と自問自答を続けた。

 

何かの行動は、結果論として語られるものなのかもしれない。気づいたら身体は動いてしまっていて、あとで、ああだったんだな。って理由付けをするんだ。

 

基本的にそうなのかもしれないけど、やはり自分が思考したという実感が無いと、少し寂しいし、自分が自分を許せなくなってしまう。

 

 

 

 

好きなことに没頭すること、ひたすら深くのめり込むこと。それのどれほど素晴らしいことたるや。それでも、自分はそれにこだわっても良いのだろうか?

 

2つある。1つは、自分は浅く広く、ではないが、一つのことにしか見識が無いと、移り変わる状況に適宜対応ができなくなってしまうのではないか、融通が利かないのは些か不都合ではないか?という不安。

 

もう1つは、自分がそれに情熱を注げるのか?自分は注ぐ価値のある人間なのか?という感覚だろう。

 

そうやって、足踏みをしてしまう時点で、自分は自分で可能性を狭めてしまっているのかもしれない、いや、事実そうだ。

 

自分は飽き性と自称するほど飽き性ではないとは思っているが、少なくとも凝り性だとは思っていない。

ただ、もしかしたら、こだわらない本当に根底にある理由は、

こだわってしまうことで、ほかの選択肢を潰してしまう可能性があるかもしれないとないものを恐れていること、こだわった末に、自分が欲しいと思ったものを手に入れられず、絶望するのが嫌だと恐れていること、ソレが無くなってしまったときに、何を拠り所に生きればいいのかわからないこと。

 

そんなことのせいなのかもしれない、あまりにもリスク回避型の思考なのかもしれない。

 

やりたいように生きる、それはやりたいことを無制限にやっているわけではなく、マイナスになりそうなら即手を引いているだけなのではないだろうか?

 

ある程度満足してしまったら、それで手を止めてしまう、次に行ってしまうと、中途半端に出来上がったガラクタ達は、僕の周りにずんずんと積みあがって、一杯になってしまう。もう、どこになにがあったか、覚えてないや。

 

何でもできる、卒なくこなすは褒め言葉じゃない、むしろコンプレックスだとたまに自分が愚痴るのは、このような思考から来るものなんだと思っている。

失くした世界には

異世界モノがなぜ安定した人気を得られるのか?それは読者が感情移入しやすいから、という定説が理にかなっている。

 

本を一度開けば、そこは異世界だ。現実的な物理法則に則した世界観でも、そこは読者にとって未知のコミュニティであり、全てにおいて無知なのである。

 

多くの人間にとって、物語の世界に入り込むということは、その世界のルールに適合しないといけないことと同義たりえる。

 

ただし、基本的に読者はゲストであり、そのルールを知らないのは読者だけなのである。

 

だからこそ、新しい環境に飛び込む不安、そのギャップと戦いきれないと、その物語に入り込むことができない。

 

昔、どこかの偉い人が、「最初の1ページをすらっと読めなかったらその本は向いていない」と言っていたのを思い出す。

 

まさにそうで、入口から難解であればあるほど、基本的に読解は困難なのである。

 

だからこそ、異世界モノは、何も異世界について知らない「共感者」が主人公で登場するからこそ、世界に入り込みやすいのであろう。

 

主人公がその世界にとって無知であれば、異世界先に水先案内人が確実に存在している。主人公と共に、世界を知り、真理を知り、それと対峙する覚悟ができるのである。

 

ファイナルファンタジーシリーズが長らく続くようになったが、初めて、シリーズでボイスが導入されたのは、ナンバリングでいえばⅩになってからだ。

 

自分の動かすキャラに声がつく、名前が呼ばれるとワクワクするなかで、

 

その物語の主人公は、なんと、名前をセレクトできるのである。

 

デフォルト名、「ティーダ」のままにしても、物語中で、他キャラクターから名前で呼ばれることはない。

キミ、お前、あんたなど、基本的には二人称が少し距離がある。

 

それは、その物語の重要な側面も一因としてあるのだが(ネタバレになるけど)、もう一つの一因としてあるのは、

異世界転生モノとして、主人公とプレーヤーをリンクして欲しい」

という製作者の意図もあったと言う。

 

その通り、流れに沿って感情移入してみれば、すっと話に入り込めるし、

彼と共に怒り、笑い、泣き、喜ぶことができるのである。

2000年代初頭に発売され、現代のかく言う「異世界転生モノ」の黎明期にある名作の一部として、絶対に欠かせない名作だと思う。

 

さて、なぜこんな話をしたかと言えば、それは環境変化とヒトの在り方について考えることから起因される。

 

環境変化をするうえで、欠かせないのは環境に適応する能力だ。

それがあれば苦労しないし、いつまでも浮いている感じがするよりは、馴染んだほうがずっと良い。

 

自分は、成長には環境変化は欠かせないものだと信じて疑わない。

別に今の環境に不満がある訳じゃない。それでも、何かを変えないと、自分自身かわりたくても変われないのではなかろうか。

 

自分の大したことなさに絶望するのは個人の勝手だけど、だからと言って何もしないのは意味が分からない。

 

環境を変えて、適応しようとする気概が大切なのである。

 

異世界に転生したとして、それを受け入れられないのであれば、駆逐されて死を遂げるだけなのだから。

 

自分の弱い所には負けたくねえなあ。

 

 

 

上から見るか?下から見るか?

打ち上げ花火は真下から見るとどんな形をしているんだろう?って思ったことはあるけど、それとはまた別の観点の話。

 

人生21余年、生きてきて苦手な質問シリーズは

親友いますか?

休みの日は何してるの?

そして、

「特技はなんですか?」

の3つ。

 

特技なんて、マクロレベルで見れば、世界一位の特技なんて無いからなぁって、上を見てしまうのが自分の幸福指数が低いところ。

 

何かにつけて、自分が欲しいと思うものについて能力が高い人を見ると、本当に尊敬する半面、自分の不甲斐なさ、まだまだだなあって、頑張ろうって思う。

 

謙虚なタチだと思っているが、客観視しても自分は、ある一定のレベルまではだいたい卒無くこなすことはできるし、俗に言う

「できる人」って扱いを受けることは少なくはない。

その組織体のレベルのなかではすごいとかできるって思われてても、自分がそれに満足したレベルの高さなわけないし、満足しているってことは、そこでその能力で自分はストップしてしまうんだなって思ってる。

 

変化を起こすには、意識を変えるだけじゃダメで、だいたい頭で考えたことは忘れて風化しちゃう。

 

環境からバッって変えて、あとから、意識とか、実績とか、レベルとかがついてくればいいとおもう。

 

自分がちょっと満足してしまった怠慢があって、そのせいで、今めちゃくちゃ自分の不甲斐なさに絶望してしまっているから、こういう気持ちは忘れたくないなって思っただけ。それだけなんだ。

 

 

映画2本観た

この2日間は台風直撃を託けて、家にこもるなかで

2つの映画をアマプラで観た。

 

おっぱいバレースマホを落としただけなのに

 

前者は、タイトルにアレはあれど、

「嘘」と「建前」についてメタファーの効いた作品だったように感じる。

 

後者は、スマホ社会の恐ろしさを感じた中で、

「あなたは、本当にあなたなの?」

ってことを、改めて再定義しなくてはいけないというメッセージ性を感じる。

 

終わり。なんか書こうとしたけど、気分が乗らなくて駄目だ